書評日記 第139冊
私はそうは思わない 佐野洋子
ちくま文庫

 ああ、もう!、いい加減にして下さい。あなた方!
 そもそも日記なんてものは、個人で書いて楽しむものだから、それについて良いも悪いもないはずです。まあ、それを公開する上で、ひとそれぞれのスタイルがあるから、俺が何云ったって大丈夫なはずでしょう?あなたの日記はあなたのためのものだから、何もびくびくする必要はないのですよ。俺は表も裏も見ました。どちらも同じに見えます。毎日読んでいるわけじゃないけど、とばした日は前に戻ったりして読んでいます。面白くない日もあるし、頷くような日もあります。まさしく、話をしている気分なんです。俺の読み方は、作家と読者の対話です。「ひと」と話しているわけで、その日の文章を単に読んで分析しているわけではありません。「分析」するのは俺のためで、それをキッカケにて自分の話を膨らませていきます。それが俺の文章のスタイルです。そういうキッカケの部分をあなた方は持っていることを自負して頂きたい。自信をもって頂きたい。所詮、俺の日記は、俺の感情の露出に過ぎないのですから。俺の文章能力の鍛錬の場に過ぎないのですよ。

 うーむ、面倒だった、参照文献を書き換えました。現在、俺が会って話をしたい人を列記しております。他にも読んでいる日記や文章もあるけど、それは文章を読んでいるに過ぎず、人と会話をしているような感じがしません。それが、俺の読み方なのですよ。わかるでしょう?書評日記を続けて読んでみれば、そんな軽薄な人間ではないこと、簡単に逆上したりしないこと、論理的にものを考えること、下ねたが多いけれども露出狂ではないこと、文章の読込みが深いこと、感受性が高いこと、幸せな家庭と思っていたものが普通ではなかったことへの戸惑い、自分という人間に自信が持てないこと、勘違いが多いこと、深読みし過ぎること、本が大好きなこと、皆を思いやりたいこと、嫌われたくないこと、ずぼらであって最終校正が出来ないこと、云いたいことが沢山あること、罵倒されても我慢できること、冷静な自分を悲しんでいること、子供が好きなこと、独占欲を捨て去ったこと、全ての人を愛したいこと、全ての人に愛されたいこと、女性という性に憧れをもつこと、男性の暴力的行為に辟易すること、自分で言葉がきついのを気にしていること、誤解されるのが嫌なこと、誤解されても仕方が無い文を書くこと、女性に対して心より慕うこと、男性上位の社会に反発を持つこと、自由という束縛を求めること、多数派という暴力を知っていること、独りでは何も成し得ないことを知っていること、でも人間は独りだということ、フロイトよりもユングであるということ、筒井康隆と話がしたいこと、演劇に憧れること、人生は舞台だと思っていること、自分の人生の主役でありたいと思うこと、出歩きが好きなこと、絵が好きなこと、音楽が好きなこと、会話が好きなこと、シャイなこと、友達がいなかったこと、転校続きで幼馴染がいなかったこと、初恋の決別がいつまでも傷に残っていること、人恋しいこと、人嫌いになること、真実というものは痛みを伴うこと、幸せというものは決して簡単に手に入らないこと、先の生活に不安を感じること、再び独りになることに寂しさを感じること、饗宴に参加したいこと、でも饗宴は饗宴でしかないこと、喰うのに困らない程度の金で満足できること、セックスよりも会話が大切だと思っていること、谷川俊太郎の詩が好きなこと、佐野洋子のエッセーに涙すること、内田春菊を知ったこと、人の悲しみを共有できる心を持ちたいと思うこと、またそういう行動をしていること、理解されないことを悲しいと思うこと、理解したいと思うこと、理解されたいと思うこと、それには「言葉」巧みになるのが一番と思うこと、読解力を磨くべきと思うこと、「本」を読むということは「対話」だと思っていること、たくさんの人と出会いたいこと、10年先にも一緒にいたいこと、一緒に大きくなりたいこと、この世紀末がチャンスだと思っていること、混乱に乗ずることは悪くないと思っていること、平凡な人がいるということを知っていること、非力な人がいることを知っていること、感情に流れる人もいるということを知っているということ、それでもよく考えて一息いれて考えて欲しいと思うこと、などなど。
 そういう、バックボーンが見えて、そのような文句を付けるのならばいいですけど、単純に「言葉尻」だけ押さえられて、「悪意があるのか」だの「気分が悪い」だの云われても俺としては困るわけですよ。じゃあ、何?俺は、誰かの日記を読んで素直な感想さえ書くことは、軽い気持ちで書くことは、それをキッカケにして話を広げることすら許されないの?
 以前、云った言葉を繰り返しましょうか。
 「俺はあなたのために書いているわけではない、でも、あなたのために書いていないわけではないのだ。」
 そう、自意識過剰にならないで下さい。ここにいる稀Jrという作家は、非常に自由に読者と隔てられた形で文章を綴っているのです。それは、社会批判であったり、自己分析であったり、暴力や無理解への嘆きであったり、感受性の鍛錬であったり、そう、いろいろでありますが、個人の名前が出たからといって、その人オンリーのための文章ではないのですよ。その人の言葉から受けたものを俺の中で膨らませて、さらなる言葉の広がり智恵の広がりを持たせていく、そういう繋がり&広がりを俺は求めているのです。ですから、個人の名前が出ても、それはキッカケに過ぎません。基本的に個人攻撃はしませんからね、俺の場合。個人の中に潜む、歪んだ社会通念とか安定のみを求める弱い心、若いのに進むことを諦めてしまう人生感、日々の楽しみだけに刹那的に生きる姿、妙な仲間意識、人の悪い点を強く指摘できない雰囲気、またそれを見逃してしまう雰囲気、そういうなよなよした場に、また、なよなよした人達は、俺にとってはどーでもいいのです。ただ、思うのは、そーでないものを持った人、所謂、「言葉」をもっていて「心」を表すことが出来る人が、そういう場なりそういう雰囲気なりに溺れてしまい、人生の貴重な時間を浪費してしまうことに苛立ちを覚えるわけです。
 自己意識過剰にならないで下さいね。あなただけに申しているわけではありません。それに気付く人、すべてに申しているのです。それに気付くのはあなたです。そして行動するのもあなたです。ユングが云っているでしょう。
 「強引な手助けをしても、常に手助けが出来るわけではない。」
 そう、確かに。でも、俺はできるかぎり、手助けをして上げたい。ただ、それだけなんですよ。

 本日の一冊は佐野洋子「私はそうは思わない」(ちくま文庫)です。
 いわゆる、エッセーの本です。佐野洋子は、谷川俊太郎の奥さんであり、「100万回生きた猫」の作者でもあります。俺の理想の女性のひとりでもあります。まあ、うん、離理想は多い方なので・・・。
 さて、彼女は北京で生まれています。結婚もしていて、離婚もしています。子供時代はなかなか生意気のようです。ただ、ひとつひとつのエッセーに対して涙するところがあります。うーむ、なんか、この人も俺と同じような考え方をしているに違いないような気がします。女性なんだけどね・・・いや、女性だからか。
 ま、それはいいとして、何かを為そうとしている女性の方にこれを送ります。また、何かを為そうとしている女性が好きな男性の方にこれを送ります。

 泣こうが喚こうが弱まろうが構いませんよ。最近の俺は、抜群に「打たれ強く」なっていますから。だから、あなたも強くなって下さい。

update: 1996/09/09
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