書評日記 第148冊
ユング心理学と仏教 河合隼雄

 ははあ、再び、目から鱗が落ちる。最近、毎日の如く目から鱗が落ちる。いろいろな事に気が付く。あんまり落ちるとそうち目が無くなってしまうんじゃないかと思うことがあるけどそんなことはない。うーむ、俺って結構何も見えてなかったのかもしれない。

 そう、「自由日記」の11月20日分と「補陀落通信」のNo.61を読んだ。書評日記を続けて読んでいる方は解るだろうか、俺は再三「補陀落通信」をけなしまくっている。最近では、もうレベルも底辺を過ぎ、地を這うようになってしまったので、どうにもならないし、読んでない。んなもんだから、「読んだよ」ボタンのかわりの投票ボタンも押していない。余談ではあるが、俺は日記猿人のボタンは読んだら押す。だから、押されていなかったら読んでないと思って間違いない。ただ、「よろずや」さんのところのボタンは誠にボタンらしくないので押すのを忘れる。ついでに1週間まとめ読みせよ、との御達しなので、その通りにする。更新されたらまとめ読み。それでいいのかもしれない。
 ああ、そう、「自由日記」は2度めだったと思う。好きでも嫌いでもなく落ち着いた感じが俺にはとてもいい。不思議だけど、あっこさんのところからリンクが貼ってある。なんとなく解る気がする。「パスカルの賭け」について書こうとしているのでない。はっきり言って、これを知らないので書けない。パスカルと言えば、数学者パスカルの方を思い出す俺は、哲学者パスカルに疎い。カソリック信者を自負する俺(洗礼を受ける気が無いので、信者とは言えない。自称「信者」である。)にとって、宗教的な話は好きなのだけど、まあ、それは後ほどの事。
 さて、それに比して、新屋さん誉めちぎる(・・・に見えるが)「補陀落通信」の方だが、うーむ、読むだけでむかむかする。何故だ?最近は読まずにおいたので精神的にほがらかであったのだが、ぐう、一体何をしたいのだ?この人は?
 そう、昨日、母親のギャグを聞いてはたと気づいた。
 俺は出掛けに定期をよく忘れる。確認を怠る俺としては、当然の所存であって、靴を履き、玄関を出て、改めてポケットを確認(ポケットに入れるのが悪いのかもしれない)して、定期を忘れたことに気づき再び、戻ることたびたびである。

 それを何度となく母親曰く、
 「ほら、電車の確認みたく、定期よし、ハンカチよし、メモ帳よし、ってやってみたら?」
 誠に嬉しそうに話す。
 俺は、不機嫌になる。
 「一体、何がおもしろいの?」
 とまではいわなかったが、むっとして玄関を出る。

 んで、気が付いた。
 なーるほど、「補陀落通信」のギャグは俺の母親と同レベルのギャグなんだ。なさけない、なさけないぞ、たみおさん。俺の母親と同レベルでは、なさけないぞ。うーむ、それを読んで面白いと思っている方々、まあ、新屋さんとしよう。なさけない、なさないぞ新屋さん。俺の母親レベルのギャグで楽しんでいるようでは、知性というものが感じられないぞ。
 いや、まあ、なさけない方々は相手にしないことに決めたので、何も云うことはない・・・って結局云ってるんだけどさ。まあいいか。勝手にやってて下さい。

 あ、そうそう、忘れるところであった。「補陀落通信」の一番したの「私は天国へ」の部分。天国という思想があるのは西洋の宗教だけだから、「私は天国へ」という部分は妥当ではない。せめて「至福の時へ」とか「至高の道へ」とか、そういう曖昧なものにしないとオチにならないと思うのだけれども・・・とかなんとか。詰めの甘さは、かつて、ばうわうさんが遠藤周作の死に対して「合掌」してしまう部分に匹敵する。その程度のレベルにしか見えないことを自覚して下さい。

 こういう風に爽やか(?)に罵倒されるのはどうだろうか。よくわからんよなあ。たみおさんや新屋さん以外はどうお読みになるんだろうか。腹が立つ?

 さてと、本日の一冊のために哲学書なんぞを探そうと思ったのだが・・・はあ、俺の本棚にその類の本は極端に少ない。文庫本が多いってのが理由だけど、どうも生の知識ってのに辟易する。
 河合隼雄「ユング心理学と仏教」を紹介しよう。最近、ユングにはまっている(?)俺が不思議に思ったのは、ユングがやたらに「カソリック」を強調することであった。確かに男性であるユングにとって母性像の発見をした「カソリック」は西洋の中で重要な位置を占めるし、ユングいうところの「アニマ」に通づるわけだし、その支持をする宗教である。
 んで、自伝を読んでいて不思議に思ったのだが、西洋では根底に流れるものとしてキリスト教があるけれども、日本の場合はどうなのか。ということが気になった。ははははは、河合隼雄教授はぬかりありません。さすが、日本で第一人者と呼ばれるだけはあります。そう、日本人の場合、仏教思想と離れることはできない。確かに無信教な人が多いだろうが、冠婚葬祭の時に大乗仏教に従う者が多いとすれば、まあ、外せないものだと思う。しかしなあ、初っ端に親鸞が出てきたときは笑ったが・・・まあ、それは個人的な話。
 「石の上に座る」という言葉がある。座っているのが自分か、または、座られている石が自分か、そういうことを考えるという意味である。果たして、「石=意志」の音便は偶然ではないと思う。また、菩薩は男でもなく女でもない。ただ、描かれるときにその伏せた目は、女の至福の表情として作られる。これは秋山ジョージの「マリリン・モンロー」に詳しいのだが、それもまたの話。そういうものから、日本人はもともとユング思想を素直に受け取れる土壌があるのではないか、と思う次第。それこそが俺が日本を日本語を好きな理由なんだけどね。なぞと「釣り人達の想い」の方に答えてみたりする。

 日出ずるところに住まい、その言葉を母国語にしたことは、俺にとって最高の幸運である。と昨今想う次第。

update: 1996/09/09
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