書評日記 第168冊
対局する言葉 羽生善治&柳瀬尚紀

 俺はいわゆる対談集を読まない……というのは、「心の声を聴く」で書いたと思う。ははははは、そうだよな。俺、「推考」したものが読みたい、って書いてあるわ。なんか、偽っているような気もするが、まあ、いいか。
 というのも、最近は敢えて「小説」というものにこだわらずに読んでいる。それは解説書であったり、随筆であったり、詩であったり、漫画であったり。どちらにしろ「作品」という形で提示してあれば良いのかもしれない。
 また、思うに「作品」となるための定義は、その内部から何か伝えようとするものが含まれていればいいのではないか、と思う。まあ、自己弁護のように聞こえるかもしれないが致し方が無い。
 
 俺が文章を書く時に大切にするのは「文脈」である。最初があって最後がある。その間は、一本に繋がっているべきだと思う。というか、一本に繋がざるを得ないのではないだろうか。
 自分の文章でもよくあるのだが、読んでいて「?」の部分が出てくる。先の文章と今の文章が噛み合っていない時がある。それが俺の「?」な部分なのだ。
 俺が「?」を感じる時、そこには偽りが含まれると思っている。何かが滑る。単に言葉を並べて連ねてしまった時に起こる「ずるさ」が含まれているような感じがする。
 他人の文章を読んだ時、他人の話を聞いた時も「?」な時がある。
 それらを俺は「文脈が違う」と云う。こうなるはずなのに、ならない時、それは何かが妙になっている時なのだ。

 柳瀬&羽生の対話集は、「?」な部分が無かったといっていい。解説では、「双方話が食い違って」と書いているが、俺はぜんぜんそうは思わない。逆にきちんと噛み合っているような気がする。
 確かに字面だけを見れば、話題が一定していないように見える。でも、根底に流れる、柳瀬さんと羽生名人の云いたい部分、感じたい部分は、きちんと共鳴しているのではないだろうか。だから、俺には「?」の部分がなかったし、非常に面白い対話に加えてもらったという満足感が読後にあった。

 言うまでもなく、羽生名人は将棋指しである。将棋は一手一手進む。途中で、飛ばされることはない。最初の一手から投了図まで、一気である。繋がっている。
 だから、彼らの話は、非常に素直に俺に伝わるのではないだろうか。

 文章やら対話は、将棋と同じだと思う。一手一手進めるものだし、途中にどんな奇手があっても繋がっている。
 「ずる」をしたな、と思った時、俺はその部分をばっさり消す。そしてその時点から再び書き始める。後戻りはほとんどしない。妙に直すと変な感じが残る。

 ひとつひとつ真剣に言葉を選ぶ。そして最後に来る。
 息の根を止める言葉を指す。
 そして、全体は投了図になる。

update: 1996/12/13
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