書評日記 第171冊
小説のたくらみ、知の楽しみ 大江健三郎
新潮文庫

 最近、喫茶店で書評日記とか日記物語を書くことが多い。
 実は「喫茶店」と言ってはいるが、此処は「ミスター・ドーナッツ」だ。ははははは、流れているのは流行曲で、周りは騒がしい。そんな中で書いている。
 大学時代、本を読むのはV7というジャズ喫茶であった。常にジャズが流れるスピーカを背にして、その前で本を読む。ほとんど、毎日のように本屋に通い何がしかの本(漫画を含む)を買い、V7でそれを読んだ。まあ、大学には行っていなかった。そういう日々を過ごしていた。
 で、今は、通勤電車の中で本を読み、帰りはこのような場所でノートブックに文章を叩き込んでいる。

 周りがうるさくないのか?と自問してみるが、さほど気にならない。そう、反って周りの雑談が俺の興味を惹く。雑な歌謡曲が流れる。それをバックに聞きながら、男女の会話を盗み聞く。わさわさとした音の渦の中で、こうやって文章を書く。なんでなんだろうか、これはこれで安心するのだ。

 一人部屋で、膝の上にノートブックを置いて書く時もある。何かがふと頭の中で閃く。それをそのままに書き移す。俺の場合、その一瞬の閃きを引き伸ばしたのがこのような文章になっている。
 勿論、書いている途中にもいろいろな閃きが出てくる。文章が揺れて分かり難くなる。ただ、そう、俺自身にはさほど読みにくいことはない。当たり前だと言われそうだが、それほど当たり前のことではないと思う。
 なぜなら、これを書いている瞬間の俺と、数日してこれを読む俺とでは、全く違うものではないか、と思っているからである。何故違うのか?
 俺は日々成長する。俺の精神生活に繰り返しの行動はほとんど無い。だから、常に変化をして自分を模索する。探求する精神を持ちつづけるということは、自らを変化させることだと思う。

 幾度となく、以前の書評日記を読み返す。その度毎に新しい感想が湧き出る。
 卑近な話で申し訳ないが、俺は自分の文章に感動する。自分を感動させなくて、自分を納得させなくて、何が文章か、と思う。だから、俺の第一読者は俺なのであり、俺は俺自身を感動させるためにこの日記を書いている。

 大江健三郎の「小説のたくらみ、知の楽しみ」を再読する。珍しく俺はこの本を再読している。幾度となく読み、幾種類もの感想が引き出せる。大江健三郎は懐が広いと思う。
 表面的に、ざっと読んでもなんのことが書いているか良く分からない。また、何かを得たいという消極的な理由で読んでも得られない。
 果たせるかな、柳美里はこの本を薦めていた。そして俺は本棚から引っ張り出して再読している。

 何かを奪い取ろうとする自らの頭の回転を持つ者のみが、この本から何かを得るのではないだろうか。ひょっとすると、彼の小説は、能動的な読者しか受け付けないように出来ているのではないだろうか。村上春樹の物語のように、清水邦夫の演劇のように、そして、俺が浪人時代より愛読している「M/Tの森の不思議の物語」のように。

 そうそう、とてもよい返事を頂戴した。
 「大江健三郎も「耳」の人かもしれません。」
 
 そう、彼は「語り」を重視する。朗読する。話し掛ける。語り聞かせる。そういう物語を重視する。
 彼は、筒井康隆も井上ひさしも賞賛する。どちらも演劇に関わるものだと賞賛する。

 こうやって、何が繋がる。俺の好きな作家は、俺の好きな作家が好きなのだ。そして、俺の書評日記を読んでくれるあなたは、何の本が好きなのだろうか。

 まだまだ、知識が広がる。世界が広がる。この感激こそが本物ではないだろうか。本物とはこういうものだと思う。少なくとも、俺は俺のことを本物だと思う。あなたは、自分のことを本物だと思いなさい。そう、少なくとも、この書評日記を好む者は「本物」であると思う。俺が認めます。

update: 1996/12/16
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