書評日記 第197冊
反解釈 スーザン・ソンタグ
ちくま学芸文庫

 この本を読んだのは、まあ、「ぷれつま日記」関係で出てきたからである。
 ちょっと説明をほどこせば、Minkさんの「赤スキンちゃん」に対する夜久さんの感想、それに対するある人物の批判、それに対する俺のパロディ批判、という手順になっている。
 んで、「反解釈」を読んだ感想といえば、期せずして、俺のパロディ批判により、一連の感想ごっこはソンタグの意図するところに落ち着いたというべきではないだろうか。
 つまり、「反解釈」を持ち出したとある人物の言動のみでは、「反解釈」の意図するところは完結し得ない。故に、「反解釈」を持ち出した人物は、「反解釈」を理解していない、ということになるがいかがなものだろうか。

 さて、「反解釈」には「形式」という用語が出てくるが、当然のことながらその用語にまとわりつくような解釈の仕方では、それを理解したとは言えない。
 勿論、「反解釈」自身にでさえ、反解釈の定義が成り立つし、ソンタグ自身が意図するか意図しないかにせよ、すべての文章を作品として認めるならば、彼の意図するところは何処へいくのか、という話になる。
 ただ、芸術というものが、そのような生の知識の押し広げではなく、なんらかの表現の工夫が必要であり、「カモフラージュ」の中にのみ存在しているものとするならば、芸術作品、非芸術作品というものが存在し、読者に解釈させようとする行動に違いがある、とすることもできる。

 しかし、疑問視するならば、そのように芸術作品と非芸術作品を分別するところの基準がはっきりしているか否かはさだかでない、というのが一般の意見であり、現代の考え方だと思う。それは、「前衛」と称して、一般の理解を超えたところに解釈、いや、「反解釈」の唱えるところの「官能美学」があるとしていることから、芸術としての基準はどこにも無いとしても過言ではあるまい。
 つまり、芸術の必要とするものは、芸術を解すると豪語する専門家乃至批評家、または、芸術家そのものによって、支持されるところのもの、とすることができる。となれば、所謂、一般大衆と呼ばれる前衛芸術を理解しない、とさげずまれる者達は、どのように専門家の言うところの芸術を解すれば良いのだろうか。芸術の批評家と呼ばれる者達の、芸術を感じている乃至理解しているところの意見を有り難く拝聴するのみなのだろうか。
 あいにく、そのような拝聴からは「反解釈」の意図するところの「官能美学」は出てこない。
 形式美にせよ、解釈美(?)にせよ、芸術作品とされるところのものが単なる自慰行為でないのならば、伝達するところのものがあってしかるべきであり、それを受けて、なんらかの感触を得るのは頭を持っている人間の自由な感覚と云えるだろう。

 まあ、端的に言えば「芸術を解する者は、芸術を創る者である」とするしかない。

 さて、これを読んで諸君諸嬢は何を思うだろうか。
 反感にせよ同意にせよ、はたまた、「ふん、何言ってんだかちっともわからない」にせよ、まさしく、その諸君諸嬢の反応こそが、俺の意図するところであり、この文章の意図するところである。
 それに自信を持つことこそが、ソンタグの説く「官能美学」である、というのが、俺の「反解釈」の感想である。

update: 1997/01/15
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