書評日記 第196冊
おとうと 幸田文
新潮文庫

 さてと、この書評日記も200冊が近くなった。
 実は、200冊めは決めてあるが、201冊めは決めてない。貴女からのリクエストならば受け付けますが、いかがでしょうか?

 そういえば、小説家になるには、こんな本を読まねばならぬと国文学かぶれに云われたり、もっと幅を広げないとだめだよとドストウェスキーかぶれに云われたり、批評をするなら「反解釈」を読まねばならぬとあったり。まあ、色々凝り固まった輩が居る中で、ここまでやって来たわけだ。果たして、今の俺は彼ら云うところの小説家の群像に近づいたのか否かは解からないが……、俺としては随分成長し近づいたと思っているが、いかがなものだろうか。
 自分で云うのも難だが、常に「歩き」続けることは、こういう良い結果を生み出すものだ。きちんと自分を信じてやってきて、人の意見も取り入れて、その矛盾を解決するために葛藤を行い、多少の危うさを残しつつも、綱から落ちずになんとかやって来れたのは、やはり自分をしっかり信じているから、こそ、である。
 うはははは、ざまあ見ろ。

 ……というのは、さりげない(?)ご指摘というやつです。まあ、ちょっとは揺さぶらないと、俺の気分が晴れない、というところでしょうか。

 幸田文は幸田露伴の娘だそうである。ただ、幸田露伴を読んだことが無いので、比較することは出来ないし、比較する気もない。ただ、云えるのは「おとうと」を読み、夏目漱石、中勘助と同等の童というキーワードを思い浮かべるのは、的外れなことだろうか。

 不良になっていく弟。だが、姉を気遣う弟。血の繋がらない病身の母親を持つ弟。肺病になる弟。
 狭間というにはあまりにも深い溝に弟がはまり込み、その使命を全うしようとする姿が描かれている……と書くと単なる感想文に成り下がるのだが、今の俺にはこれ以上のことが云えない。

 家族の中では否応無しにそれぞれの立場を演じなければならない。うちの家族は、転勤の多い父親として、専業主婦の母親として、勉強の出来た兄として、そして、その弟として。
 兄としての俺が、弟にしてあげたことといえば、本の楽しみぐらいなものだろうか。後は随分と補佐をして貰った部分が多い。俺の方はごたごたやって此処に至っているけれども、彼の方だってごたごたやって其処に至っているはずだ。
 3歳違いなのだが、気分は双子のような感じだった。
 歳の差を感じること無く、一番近しい友人として彼は常に其処にいたのかもしれない。

 兄弟というものが、他人の始まりであれば、そうなのかもしれないが、他人さえも兄弟と思えるならば、こんな感じで過ごせればいいなあ、と思う時が多い。
 そう、だから、俺にとっては、「他人」がいないわけです。「人類みな兄弟」の標語ではないけれど、云うにしろ云われるにしろ、何か根底が繋がっていて、きちんと伝わるべきところは伝わるんだろう、正しいところは正しく理解されるのだろう、という期待に満ちているわけです。

 あ、まあ、無理な話なんだろうけどね。希望のお話。
 そうそう、リブレットはきちんと卒業祝いで買ってあげますから、心配しないように。

update: 1997/01/14
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