書評日記 第195冊
青少年のための自殺学入門 寺山修司
河出文庫

 何故か最近は本を読むペースが早くなった。昨日は村上龍「すべての男は消耗品である」を読み、「限りなく透明に近いブルー」を読み、幸田文「おとうと」を読み、寺山修司「青少年のための自殺学入門」を読み、今朝は、中勘助「母の日」を読んだ。何故、再び速読をしはじめているのかよく解からない。ただ、以前とは違って読んでいてどっと疲れることはない。読むというよりも、眺める。さらっと流して、ひょいひょいと何かを掴み取り確認する。そんな感じの読書を楽しんでいる。

 別に数を読めばいいというわけではないのだが、読めば読んだなりの知識と知恵が得られるし、時間が勿体無いから本を読んでいるというのもある。だけど、途中で疲れて頭休めにゲームセンターに行く俺は一体何者なのだろうか。ははははは、この癖は一生直りそうにありません。人と一緒の時は行かないんだけどねえ。

 俺が寺山修司を好むのは、波瀬光子関係であるのと、先の柳美里が賞賛しているから。そういう点で、俺にとって演劇という別な表現方法に触れる良い入り口であるわけだ。

 はっきり云ってしまえば、俺は寺山修司をよく知らない。年表的に云々ではなくて、寺山修司の意図するところ、彼が何をしたかったのか、が俺の中で確立していない。いわば、寺山修司という像が俺の中で結ばれていない。

 ただ、なんとなく執着するのはダリとの交流もあることから、近しい部分を持っているのではないか、という暖かみから彼をして気になる存在と為しているのではないだろうか。
 寺山修司という名の響きそのものに惹かれるのかもしれない。

 ちなみに、柳美里によれば「自殺学……」を読んで、自殺する人はいないそうだ。「完全自殺マニュアル」を読んで自殺した若者は多いらしい。そういう意味も含めて、ちょっと「遺書」を書いてみた。
 果たして、これが作品なのか本当に遺書なのかは、自分でもよくわからない。ただ、云えるのは俺が自殺する前に遺書を書くとしたら、こうなるであろう、という例なのかもしれない。ひょっとしたら、俺は自殺をしても不思議ではないのだよ、という意志を示しているのかもしれない。
 ま、現実は、こうやって生きているのだから、さほど問題ではないのだろう。

 問題だな、と思ったのは、実際に「遺書」を書いてみるとその中に出てくる「僕」というのは一体、俺なのか、それとも作中人物なのか、という不安に囚われることだ。
 自分を作品中に転化させ、より深い状況に置いてみて、シュミレーションをすることは、あまりするべきではないような気がする。そんな恐ろしさを感じる。
 ひょっとしたら、筒井康隆が「パプリカ」を書いた時と同じではないだろうか。

 「自殺学…」の最後の部分で、家出少女と父親の手紙のやり取りがある。
 去年の秋、母親と喧嘩をした後、彼女に長い手紙を書いたのを思い出した。両親はそれを読んでどう思ったのかは聞いてはいない。返事も貰っていない。
 こんなことをやっている俺を見て、彼らはどう思うのだろうか。彼らの知らぬところで息子が経験していることをどう思うのだろうか。

update: 1997/01/14
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