書評日記 第202冊
それから 夏目漱石
新潮文庫

 猥褻だのエロだの不倫だのに辟易したから、「それから」を読んだのではなく、島田雅彦「彼岸先生」を読み終えて、「こころ」を読み、再び漱石文学に触れたくなったから、というところかもしれない。生憎、古本で買った時の本来の理由は忘れてしまった。
 今更、明治期の筆頭文学者、夏目漱石の文体等を論じる気は毛頭ないし、論じるだけの知識も無い。ただ、云えるのは中学生の頃に読んだ「我輩は猫である」、「坊ちゃん」の印象と、半年前に読んだ「倫敦塔」、「坑夫」の印象と、最近読んだ「こころ」、「それから」の印象から得られる俺の夏目漱石像は大して違わないことである。同時代に生きた中勘助の「銀の匙」同様、自分の中で「好む」あるいは「善い」の分類に入れられる作品であることは確かなことだ。

 基本的に俺は再読をしない。本を読んだ後細かい部分は忘れてしまうのであるが、大筋であり己にとって大切な部分は俺の人生の一部と化してしまうために、フレーズ毎に刻まれるように記憶が残る。そして、忘れ得ぬものとして今の自分の中に残っている。
 他人が一冊の本に対して耽溺するのと同様な動作を、記憶の中で反芻しているのではないだろうか。
 俺の読書遍歴の中で3度再読したのは大江健三郎「M/Tの森のフシギの物語」とアシュラ・ル・グウィン「夜の言葉」である。それ以外は無い。
 漫画を再読する方が圧倒的に多い。読み易いという理由もあり、暇潰しとして最適であるからかもしれない。でも、中学生の頃、安彦良和「アリオン」を幾度となく読み返し、「モラトリアム」、「少年」、「英雄」、「神話」等のキーワードを次々と導き出していった行為は、今の俺を構成するのに不可欠な要素であった。また、それを模する自分を見るのは、相互干渉あいまって理想と物語と現実とがごっちゃになっている俺だからかもしれない。ただ、まあ、悪いとは思わない。

 夏目漱石が今の時代に生きたらどのような小説を書いただろうか。夏目漱石の死後の歴史・文学を夏目漱石が知った後、彼は彼のままでいられるだろうか。夏目漱石以前に夏目漱石が居た時、彼は彼の文体を保持しただろうか。
 あまりにも愚問であるのだが、彼の文体は彼が彼自身から脱し得ない限り、彼自身である限り、同じだと思う。
 勿論、夏目漱石の文体が生涯通じて全く同一であった、と主張する気はないし、漱石研究家の云うところに寄れば違いがあるそうだし、それでこそ「作家=言葉を模索する人」に値するのである。漱石の脳が残っているように、漱石の文学は、研究される対象としての良き実験結果なのかもしれない。切り刻まれる事実は、彼の知るところではない。
 尤も、文豪として日本文学の創始者(という認識が俺にはある)として夏目漱石を発端とするならば、そのヒエラルキーから逃れ得るのは至難の業であり、無駄な作業かもしれない。それは、ヒエラルキーは統治者(この場合は諸研究家)をして分類と系統を論ずるが故に生じる安心の産物であるに過ぎないからである。
 だから、個としての夏目漱石と対面する時は、夏目漱石の作品と彼自身の多少の歴史を知れば、それで十分ではないかと思う。明治期という日清・日露戦争を勝ち進んだ日本を考え、大正時代直前を想い、その中に生きた彼と彼の作品を堪能するのは、やはり、それを知る者にしか出来ない。
 蛇足を云えば、宮武外骨も同時代だ。

 代助が三千代への恋を確認する。ただ、それだけのためにこの小説が描かれる。
 「すべての小説は恋愛小説の変形である」という安部公房の言葉に賛同する俺としては、小説「それから」に対して、真っ直ぐな想いを寄せることが出来る。原点というか、骨組みというか、それは創始者だからこそ許されたのか、今だ日本文学が紆余曲折を経ていない、第二次世界大戦という日本国民の神経症の原因が訪れていない時だからこそ、新聞小説としての掲載を許され、今、俺の手元に残る理由は其処なのかもしれない。ただ、まあ、「新聞掲載」に関しては娯楽の少ない当時だからこそであろうが。
 当時の読者と同様に代助の憂き日々を堪能することは難しい。界隈を散歩し、友人に会い、酒を嗜み、生産的とも消費的ともつかない平穏な日々を過ごす日露戦争以後東京大震災以前の時代は、今の我々には理解し難い。あくせくする必要も無く、競争も至って緩やかで、多少の金があれば余生ともつかぬ生の暁を過ごすことが出来た。
 ただ、それでも人生の恥辱となり得る人妻への愛の告白を代助が敢行するのは、憂き日々の脱却、すなわち、平穏ゆえに知ることができない危険性を喚起するためではなかっただろうか。むろん、夏目漱石自身の憂さも含めてではあるものの……。

 読み取りを行わずに「官能美」として眺めることも出来る。
 ただ、「坊ちゃん」において坊ちゃんがマドンナに恋するも告げられず終わるのと同様、「それから」において代助が吉岡に三千代への愛を告げることで終わるのは、想いが錯綜するものの流されてしまう現実に一抹の不安を持たざるを得なかったという感触を得るのは、今の俺だからかもしれない。

update: 1997/01/22
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