書評日記 第203冊
こころ 夏目漱石
新潮文庫

 土曜日には病院に行こう。薬で治るならばビタミン剤でも処方して貰った方が気が晴れる。
 ただ、不思議なのは鬱状態にならないことだ。いや、そうでもないか、毎晩泣いているのは其れなのかもしれない。

 島田雅彦「彼岸先生」は「平成の「こころ」である」と帯に書いてあるので、本家の「こころ」を読んだ。まさか、夏目漱石もこういう読まれ方をするとは思われなかっただろうが、後代の者にすればどちらの本を手にとるかは確率による。むろん、この先、島田雅彦の本が残っていれば、の話であるが……。
 現代のどんな作家の本が残るのかは解からない。筒井康隆のように生前の内に全集が出れば間違いなく残るであろう。ただ、俺が夏目漱石を通読していないように、名のみ知られた作家として記憶されることも有り得る。50年後の学生がどの作家を頼りにするかは、50年後の作家に多大な影響を与えるか否かに掛かっている。むろん、明治期よりは確実に多くなった平成の作家が、すべからく後代の作家に影響を与えるとは考え難い。「芸術は芸術を創る者のみに理解される」のであれば「言葉は言葉を模索する者のみに真実を伝える」のかもしれない。そういう者達の繋がりに参加したいと俺は思う。

 「先生」と呼ばれる職業は教師を始め色々あるが、根本に立ち返ってみれば、「先に生まれし者」、つまり、俺は自分にとって「先達」に値する者のみを「先生」と呼び敬愛したい。それは職種に依存するのではなく、人生の師として生き方を学ぶが故に近づき対話を臨む己を為すような関係でありたい。
 小学生、いや、幼稚園の頃から、「先生」は外部から決められるものであった。彼乃至彼女が人格的にどうであれ、自分にとってどうであれ、彼乃至彼女を「先生」と呼ぶことに躊躇いを感じる時まで、彼乃至彼女を「先生」として敬愛することを強制される。
 幸か不幸か俺は高3年の頃まで先生に恵まれていた。極端に無視されたことも嫌われたことも無かった。それは、教師という職業故の完成度の高さがそうさせたのか、俺の素直な思い込みがそうさせたのか、今となってはよくわからないが、「先生」と呼ぶのにさほど抵抗なく過ごしてきた。

 28歳になった今、「先生」と呼ぶ者を持っていない。もし、筒井康隆に出会えばなんと呼ぶだろうか。「筒井さん」でいいのだろうか。でも、彼の生き方を己の中心に置く俺としては、本当の意味で「先生」なのかもしれない。

 「こころ」に於いて先生は主人公の生活にほとんど関与しない。最初に近づきになりたいと必死になり、幾つかの会話を交わし、そして主人公は家族の中へと生きる。
 彼は先生から何を得るのだろうか。心の中にでんと座らせ、ことある毎に意見を交わす存在として「先生」を据える。正しい存在として其処に在り、一切を超えた魅惑を持って眺める。師弟愛、すなわち、父親・母親を超えた父親・母親の存在が其処にあるのかもしれない。神よりも仏よりもずっと身近でありかつ神聖な存在として在り続けることを望むのである。それは距離的に遠くなければいけない。自らの生活を脅かしてはいけないし、関わりは最小限でなければいけない。それでも心強く惹かれるのは、「敬愛」の象徴だからだろう。
 逆に先生からすれば、辛い。「こころ」に於いては下からのみの考察となるのだが、「彼岸先生」では先生そのものの苦悩が大きい。むろん、読者の視点は生徒側(下の視点)から為されるので、先生の苦悩は理解し難い。いや、生徒の立場からすれば、自分を生徒の座に置くために先生は先生の座に据えなければならぬ。其れ故に先生は尚一層神聖化されてしまうのである。

 嗚呼、つまりは俺は先生化させられてしまったのか。彼女の「魅力的」という言葉がすなわち先生化の一端であったのか。

 先生は人間ではない。生き物ですらない。純粋な志向の具象化がそれである。憧れるのは生徒であり、見るのは生徒である。人間である先生にとって、憧れを意識したり見られることを意識するのは危険なことである。それは、神格化されてしまうこと意識して、レベルの共有が出来なくなる。
 それは、哀しい。

update: 1997/01/22
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