書評日記 第204冊
アインシュタインの部屋 エド・レジス
工作舎

 気分のいい時に続けて書いておくのも悪くはない。日常に惑わされない感情を記しておくのも悪くはない。
 「ファウスト」の途中だが、「アインシュタインの部屋」を読み終えたので此処に記して置く。

 プリンストンの高等学術研究所から輩出された天才科学者が一覧できる便利な著作である。
 「科学者」への憧れを満足させてくれる本はそう多くない。個々の偉業を称えた、あるいは、その弟子達による理論の誉めそやしは沢山あるし、著作そのものは教科書として図書館に並んでいるのであるが、このような科学者当人に焦点を当てた本は珍しい。高等学術研究所に纏わる科学者達が現代科学を推し進めてきた第一人者達、端的に言えばノーベル賞受賞レベルの天才科学者達の生きた姿を見るのは、俺にとっては楽しい。単なる憧れなのかもしれない。もしかしたらこの身に起こったかもしれない……いや、起こることは無かったであろうが、少なくとも理系学生としてその一端に触れることが出来た楽しさと希望を思い出させてくれる。
 むろん、彼らは科学者として成功し、己はただ此処でドロップアウトに励んでいるわけだから、彼我の差は大きく現実の虚しさを大きくするのが一般論かもしれないが、研究に打ち込む姿というものに漠然とした憧れを持ち、その姿を敬愛するに俺はさほど努力を要しない。それは、自分に「まだ」と思わせる可能性を信じているからかもしれない。それが他人には幻想と見えるにしても、その「まだ」を抱いている限り俺は悲観的な人生を送ろうとは思わない。それは希望というよりも、俺にとって日々生きていくための糧であると思う。此れが無くなれば俺は餓死するしかない。

 拝聴というわけでもなく、まだ知らぬ知識を既知のものにしたいという欲求に突き動かされるからこそ本を読み、噛み砕き一連の繋がりを自分の中に構築する意志があるからこそメモとして書き残して置く。同時に、露出狂ではなくて、本当の意味で知恵の共有をしたいからこそホームページでの公開や、メールでのコミュニケーションを取ろうとする。

 研究とは一体何なのであろうか。天才科学者によって得られた特別な遊びなのだろうか。研究とはアイデアの紡ぎ出しのようなものである。ブロックのように組み合わせを楽しみ一番ぴったりとした理論を見つける作業である。それに報酬が与えられるわけだが……。
 むろん、それらの研究が無ければ社会は発展はしなかった。いや、社会という概念すら出来なかったかもしれない。そういう回りくどい研究に没頭するのは、幸せかどうかは凡人には解かりかねるところだし、どうやら本人にも解かりかねるらしい。もっと目先の忙しそうな職、講義があったり講演があったり学生指導をしたり、仕事をしているという雰囲気を人は望む。だが、そういう基礎を支える部分を推し進める孤独な研究者が居たからこそ、社会は社会たりえるところがある。
 不遜かもしれないが、社会を発展させるためにはそれほど多くの人はいらない。ほとんどの人達は社会を構成している人にすぎず、現状を維持しているに過ぎない。余剰は天才が社会を発展するために必要な時間を産む。何故かニーチェの超人に至る。

 自分がどのような立場なのかを知る手掛かりはある。居場所を探し始めた時、其処に自分は居ない。忙しさを探した時、人はストップし始める。この歳に為っても居場所が決まらぬ自分に不安は無い。人間関係さえ決まらない。友人はひとりも居ないのだから、協調性はゼロだ。あるのは会社から追い出されないだけの配慮である。最低限の奉仕により給料を貰う。これほど効率の良い奴はそういまい。罪悪感を感じれば感じないだけの仕事をこなす。それで体面を保ち偽りの満足感を得られれば一時期をしのげる。
 一体俺は何をやっているのだ、という疑問が湧き起こる。大学4年生の頃、卒論をやっていた時もそうだった。大学院に受かった時感じたのは目先の安堵と先行きの更なる不安だった。
 人は生涯教育という形で自分なりの研究テーマを持っているはずだ。それにのめり込み一生を終えるならば本望ではないだろうか。それが生活の中心になるようにすれば、それでいいのではないだろうか。それが、人生の楽しみ方ではないだろうか。興味というものはそういうものであるし、成し遂げるという意味はそういうことだと思う。
 果たして俺の興味は、知識欲そのものと、世界の構造を知ることだ。それをなんらかの手段で書き表わしたい。新しい理論を構築して知らしめたい。その理系魂が作家への欲望を掻き立てる。

 何も為し得なかったという事実だけが残るのは虚しいが、為し得るためには為し得るための行動が必要なのである。それが賭けだとして、為すべきなのだろうか。

update: 1997/01/22
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