書評日記 第205冊
赫奕たる逆光 野坂昭如
文春文庫

 己を誰かに模するのは勝手だが、危険に晒されることを忘れてはいけない。自責に念に潰れるのは自分であり、誰も助けられない窮地に陥るのは必至である。其処から抜け出すためには、確たる楽観が必要なのであるが、今の俺はそんな気分になれない。

 筒井康隆著「ダンヌンツィオに夢中」と同じく、野坂昭如描く三島由紀夫の姿が其処にある。昭和ヒト桁世代に於いてナルシストの極みである三島由紀夫に憧れることは、自らを其処に溺れさせないための防衛手段だったのかもしれない。自己の行動を誇示する三島を眺めることで、同意にせよ反意にせよ、群像として具象化されたものを得て、崇拝者は自分の精神の安定剤を得たような歓びを感じたのかもしれない。
 昭和45年に彼が切腹した事を最大の関心事として三島の名を記憶に留める俺達のような若い世代に於いては、自衛隊と共に闊歩する英雄としての彼を思い、右翼と極みを達し得た悦楽に共に酔い痴れる、そして、彼のようにきっぱりとした死を願う清純さを保つのに疑問は持たない。20歳以前に得られる三島由紀夫の優れた姿に、名と作品のギャップを見ることは少ない。

 男らしくあらんことを願うのが、三島由紀夫の姿であり、彼の生涯が俺に教えて呉れた贈り物であることは確かな事実である。
 それが同性愛という異化であっても、自分を誇示することに恥じらいを見せぬ天才に憧れを持ち、彼の作品からそれらの一端を得ようとするのは、誰でも同じような気がする。
 かつて、「金閣寺」を読み終えた時、全焼する金閣寺を思い描き、青年僧侶の行為に対して論議する批評家の解説を余所に、紅く燃える業火の風景の向こうに三島由紀夫の情熱が隠されていると感じたのは、高校の頃であった。

 「赫奕たる…」では、戦後孤児時代を過ごした野坂昭如が同時代に生きた三島由紀夫という人間に対して、同時代だからこそ出来る憧憬と心情の対比を記している。
 時に混じる野坂昭如の自白に混乱しつつも、各々の人生を切り分けせぬまま、つまり2人の歩む道(主に家族との関わり合い)を一緒くたにして読み進めるのが、彼の望む読まれ方だと思う。
 不幸にも俺は野坂昭如の作品を読んでいない。先日買った「童女入水」は、島田雅彦「ドンナ・アンナ」、北杜夫「幽霊」、倉橋由美子「聖少女」に続いて読む予定であったのだが、ふと躓いてしまっている。
 だから、野坂昭如が、比して不幸な生い立ちを語りたがっている、と考えるのは多少浅墓かもしれない。
 ただ、著者紹介にて「おもちゃのチャチャチャ」と「火垂るの墓」の単語を見つけて失笑を禁じ得ないのは、俺も三島由紀夫のファンだからである。見るところは違うにしても……。

 三島由紀夫の17回忌に書かれたこの本がベストセラーになったかどうかは解からない。古本なので1991年初版となっており、これからも確かめられない。もちろん、名の売れている野坂昭如であるから、ほどほど以上には出回ったと思う。
 しからば、三島由紀夫の名を借りて彼自身のプロフィール然としているこの本から何を俺は得たのだろうか。
 それは、冒頭に繋がる身の危険性を再確認し、三島由紀夫にも友人が居なかったとする事実に多少の安堵を得る自分に新たな弱さを見つけたのかもしれない。

update: 1997/01/24
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