書評日記 第207冊
天然コケッコー くらもちふさこ
集英社

 素直に作品の中に溺れることが出来る。それで善しとする漫画が此れであった。

 田舎の中学校に通う右田そよという女の子が主人公である。彼女の目から見た友人達と家族、そして、東京から引っ越してきた大沢君の姿が描かれる。
 ラジオドラマ、宮本輝著「四万十川」を思い起こすことができる。森本レオの語る田舎の小学生達は、感情溢れる姿を其処に現出する。今は亡き干刈あがた著「ウッホッホ探検隊」に描かれる子供と母親の対話にも似た流れをこの漫画は持っている。大江健三郎の言う「クニ」の思想が其処にある。田舎というシュチュエーションは、小説の中に作られる無矛盾の世界を完成させるのに一番良い方法なのかもしれない。くらもちふさこは其れに成功している。

 話の全体を掴むのは非常に難しい。描かれるは村の中の事実であるに過ぎない。勿論、右田そよが主人公であるから、多少なりとも大沢君に寄せる想い、またそれを取り巻く恋沙汰はあるものの、それはそれでしか表わせない適切さが其処にある。
 登場人物ひとりひとりが役者としてぴっちりとはまっている。いや、くらもちふさこは、村という場を考え村人を考え、数人の生徒達と主人公右田そよの家族を考え、その中にポンと「東京」というキーワード、つまり右田そよの父親、大沢君、大沢君の母親である美津子を入れた、ただそれだけではないか、と思えるほどに村、つまり、この漫画は素直に流れていく。
 神楽も郵便局も修学旅行も全てありうるべき事柄に乗せているだけで、無理なところはひとつもない。その事実こそが、俺が感想を感想として書くに苦慮を強いられるところなのである。

 何故に「天然…」が良い作品なのか?

 良い、非常に良い。良いとしか言えない作品というものが存在すれば此れである。読めば解かるわけだが、俺が書き残して置きたい事実を掴んでいることは確かなことだ。
 一冊一冊丁寧な作りが為されてるのもそうだし、心情豊かに語られる右田そよもそうだし、大沢君の東京気取りでありつつも淡い二人の関係が素直に描かれているのもそうだし、田舎というシュチュエーションもそうだし……。
 田舎という場がもたらす暖かみが精一杯書き尽くされていると言っても過言ではない。
 長野みゆきが語るように「児童文学を超えたところにある童話」、つまり、知ることが出来ない子供にとっては決して知ることは出来ない作品、子供時代を過ごしたからこそ子供時代を反芻するための材料としての作品が描かれている作品、素朴・純朴というキーワードをフルに生かし心に染み入るように伝わる波動がある作品、それが「天然…」ではないだろうか。

 まあ、いわば、純愛を純愛として知ることが出来なければ純愛の良さを本当の意味で味わうことができないのではないだろうか。決して皮肉ではない中学生の恋の姿が「天然…」にはある。
 それが、心に響く。

 そう、言いたいのは、セックスを知った後でもこのような気持ちが残るのは意外であった。勿論、溺れる性愛もよしとして、溺れる快楽もよしとして、それでも尚、純愛に惹かれ其れに感銘を受けるのは、俺だけなのだろうか。
 まあ、なんにせよ、俺にとっては「マリリン・モンロー」の描くところの「北風ぴゅるぴゅる」では無かった性愛が、そうさせるのかもしれない。

update: 1997/01/25
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