書評日記 第210冊
鏡の国のアリス 広瀬正
文春文庫

 理系のSFというものはどうも事実に拘っていけない。無論、SFという分野がスペースオペラ等の先端科学知識満載の役目を負わされているからこそ、その使命に従うべく其れに沿うように描かれるからかもしれないのだが……。にしても、寄るべき所が村上春樹等の純文学(……らしい……)よりも虚しくなってしまうのは、単なる己の好みの変遷に過ぎない。
 まあ、文系の者が歴史書に浸る感覚で、SF小説の中に織り込まれる科学知識を楽しむのが科学小説としてのSFの楽しみ方ではないだろうか。

 別なる本になるが、「パラサイト・イブ」が映画化されるならば、「ブラッド・ミュージック」を映像化して欲しいというのが俺の意見である。どちらも、ウイルスというものを扱い、ミトコンドリアにしろ、遺伝子にしろ、科学的知識&哲学が現出するところの妄想を描いたSF小説であるには違いない。ただ、SFをSFとして読みこなした者が云わせて貰うならば、前者は科学知識に寄るべきSFへの配慮が為されている反面、SF思考の部分があまりにもおざなりではないか、と思う。無論、「賞」を取ったのであるから、それなりの評価を得ているわけだが、大岡玲「表層なる生活」と同様に今一つの物足りなさを感じるのは書きこなしを行っていない新人なる由縁なのかもしれない。それならば、それで良いのだが……。

 反して、広瀬正の描くSFは、「鏡の国…」にしろ「エロス」にしろ著者自身の望郷の念が演出されている分だけ楽しみが広いというのが俺の意見である。また、表題作「鏡の国…」のポイントになるのは「鏡」であって、パウリの原理を知り、それに対するヤン&リーの非パウリの原理を深く洞察すれば、なお楽しみが増えるわけだが、それは理系の俺だから云えるのだろう。ただ、知らぬ理論ではあっても、これらがこの作品のキーポイントとなる科学知識であり筋を進めるための底流であるならば、その原理を軸に遊び惚けるのも善しとしたいところである。これは、「タンジェント」にも出てくる鏡面原理でもある。
 キャロルの描く「鏡の国のアリス」を思い描きながら、読者は読み進めるわけだし、著者もそれを望んでいるわけだから、そうするに如くはない。ただ、SF小説というジャンルを取っ払ってしまえば、それほど興味あるものなのだろうか、というあらぬ疑問が湧き出てくる。即ちそれこそが、俺がSF小説を嗜むことが出来なくなった理由なのであるが……。

 漫画として安部公房を読む世代、雑誌として大江健三郎を読む世代が、先にあったとすれば、それは正しいと云える。これは、安部公房の娘が「ほら貝」にて答えている科白である。
 SFとして安部公房を楽しんだ俺にとって、SF的な思考を求めてP.K.ディックを読み進めた俺にとって、SFというジャンルは作法としてのSFに過ぎなくなってきている。
 別に唯SF思考を勧めるわけではないのだが、多種多様なる哲学でさえもSFとして扱ってしまえば、その正しさを議論百出して追求するよりも、「そういう考えもあるのではないだろうか。でも、現実とは動いているものだからそれに追随するように働かなければならぬだよ」という科学者が研究を進める態度を俺は支持する。
 つまりは、雄大な科学的な事実に溺れ、それをひねくり回して新たな空想を産み出すことがSFであって、それが何らかの形で信用できる分野になれば学問として研究に足る分野になるのである。無論、その境目は曖昧にならざるを得ない。

 哲学的知識と科学的知識を詰め込み、心理学や社会学に沿ってパッチワークをするならば、一体其れは何になるのだろうか。
 俺にとって、SFとは、そういう組み合わせを楽しむ場ではないか、と思うのは、未だにSFに期待を込める由縁なのである。

update: 1997/01/27
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