書評日記 第209冊
社会学講義 富永健一
中公新書

 社会から精神的にオミットされている状態が今である。誰も気に掛けないのであれば、それまでなのだろう。つまりは、自らの影響力を広めるためにホームページを作ってはみたものの、その相互の影響の少なさに失望しているのだろう。所詮、インターネットの世界は補助的な役割であると思っている人が多いわけだ。
 ただ、まあ、心理的に深い部分の会話を渇望する俺にとって、インターネットの世界の方が、文字を媒介とする分だけ良い印象を持っている。
 惜しむらくは、俺と他人との時間感覚の違いに困惑されつつある。
反応の遅すぎる現実と自分の時間との差を埋められないでいる。

 1日というサイクルで人は流動し、1週間というサイクルで仕事と休養を繰り返す。コミュニケーションは2人以上で行なわれるから、相手に時間を合わせるのが普通である。気遣いというものが其処に浮き出てくる。

 人間の内省を掘り下げて、個人を中心に世界を眺めれば心理学になる。逆に、社会制度を基準にして、それに追随する形の個人を眺めれば社会学になる。俺が見るにどちらも同じようなことをやっているような気がする。
 違いは視点である。つまりは、主体を何処に置き、現象を解明していくかに学問としての違いが出てくる。これは、哲学でも量子力学でも言うことが出来る。

 社会学者という立場から眺めれば、集団がどのように行動するのかを問題にする。個は集団の構成要素であり、個の心理に影響を及ぼすのは、過去に制定された社会制度である。社会的通念が、個の思考を束縛して、個から成る集団の行動を決定する。
 当然、時として通念とは違った思考を持つ者が出現する。それは犯罪者であったり天才であったりする。その個が出現する理由は、集団の方に在り個の方ではない。つまり、成るべくして成ったという個が其処に出現するに過ぎない。それは、フラクタルの中の僅かなパラメータの差異である。ただし、複雑系の経済の逓増を支持すれば、個の影響が集団全体に広がるのはたやすい。つまりは、全体の方向性を決定するのは個の僅かな揺らぎにしか過ぎない。しかし、集団の大多数の個は、集団の向きに準じるだけである。

 社会学を内省的に扱う時、つまり、心理学で言うところの治療として考える時には、社会の秩序に従うように個の向きを変更しているに過ぎない。心理学の場合は、社会の秩序にそぐわなくなった個を眺め、その集団を脱することによって、より個の意向に沿った別な集団の秩序を見つける作業を遂行するに過ぎない。
 どちらにしろ、偏屈であり頭の良い個には向かない理論である。
 逆に言えば、徹底的に個の特異性、つまり、悩める個を治療してしまえば、全体にフィードバックする個を死滅させることになり、その集団は固形化し、しかる後に崩壊する。
 ただし、集団にしろ個にしろ、死滅するのが本望ではないので、進化の過程から、特異性を許すように出来ている。つまりは、安心して遊んでいられる人物を作るわけである。だが、その特異な個は、個の立場からすべてが報われるわけでは当然ない。集団という生物が生き抜くための数々のテストパターンに過ぎない。閃いては散っていく個の中で、ひょんな影響を与えるクリティカルな素養だけが微少パラメータとして集団に影響を与える。

 勿論、これは社会学的な考え方だから、遺伝子的に個を中心として考えることも可能であるし、今後それが主流に成り得る。フラクタルのパラメータとして存在する個の差異は、自らを繁殖させようとして、自らの重要性を社会に誇示する。培養液のような個に影響を及ぼし、数々の連鎖反応を起こして対には集団の向きを変えるに至る。特異な個は、集団の向きが変わったことにより、より多くの快楽を甘受するに至る。それは個の安定を意味して、影響を与えられた個(子孫)に囲まれることを願う。

 つまりは、俺はどの個なんだろう、と社会学&心理学的に自分の立場を考えるわけだ。
 無駄な体力を使わず、じっと我慢をして機会を待つ己を思うのは、そのような状況に耐えられる自分を知っているからなのだろうか。
 色々な妄想が錯綜し、己の目先の快楽に身を任せるべきかどうか悩む。それは時間の無駄であったり、堂々巡りの議論であったり、単なる寂しさを紛らわせるための行為だったりする。でも、それらを押しのける形で、ひょっとしたら何か新しいことを掴めるのではないだろうか、という期待や他人の幸せ(表面上しか見えない)を垣間見る時の嫉妬が頭をもたげてくる。しかし、いつも行動は起こさない。効率さえ感情に入れてしまうのか、仲間内というものに身を溺れさせない己が其処に居る。つまりは、他人との関わり合いを極端に避けるのである。

 そういう意味で、俺の内省では集団というものの存在価値がひどく小さい。自分勝手にせざるを得ない独りという行動形態に、身を投じるしかない。当然、思考も内省的な部分が多い。
 逆に、外部との接触が極端に少ないからこそ、シュミレーションとして内部的に外部の接触を模倣する。むろん、正確ではないわけなのだが、あながち間違いではない。喰い違いが起こった時もあるが、それは些細なことに過ぎない。つまりは、ほとんど他人が要らないのである。ささやかな呼びかけ、つまり彼我を思い出させる「正解」が時々必要なだけである。

update: 1997/01/26
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