書評日記 第213冊
谷崎潤一郎随筆集 篠田一士編
岩波文庫

 随筆なんてどうやって書けば善いのか解からないが、徒然なるままにという言葉を文字通りに受け取れば、何を書いても随筆に成る。最近ではエッセーと云う訳で、エッセシストとしての地位も確立したように見える。つまりは、雑文を生業とするライターが書くべき雑誌の類いが増えたわけだ。その辺は、情報過多の現在にて情報そのものに金銭的価値がある世の中になりつつあるからに過ぎない。社会に追随するためにのみ情報を得、その場的でしかない知識にあくせくするようでは仕方が無い。
 易しくかみ砕くという意味で、立花隆のような情報のフィルター役の文章家が繁栄を誇るのは致し方が無い。ただ云えるのは、積み重ねに値しない知識の溜め込みと思考のお遊びに付き合っているいるほど俺は暇ではない。ざっと流し読みをして、「読了」というには程遠い満足感に浸り、「読んだことがある」という片手間な自慢の種にするしかない。単なる雑学に過ぎない。

 逆に、小説を主として、時として随筆を連ねている者の文章には味わいがある。大正文学の筆頭に上げられる谷崎順一郎の随筆は、池波正太郎の食への想いを綴った随筆に通づるところがある。無論、俺自身が興味のある「食」への寄せが、それらの文章に対して興味深く思う原因であるにしろ。

 谷崎潤一郎の大阪への嫌悪感は、なかなか興味深い。白痴文化としての義太夫批判にしろ、大阪という雑々たる人の気質を東京人と比べ嗚呼と嘆く姿に多少の共感を禁じ得ない。
 ただ、俺が彼の大阪への卑下を拝聴するのは、大阪にて7年間の学生生活を過ごし、そして東京の渋谷にて職業の地を得ているからなのかもしれない。京都の静々した冷ややかさよりも、大阪の雑多な感情を好む俺としては、歳上の男性から「兄ちゃん、兄ちゃん」と呼び止められた当時を思い出し微笑ましくさえ思う。漫才のような人々の会話の中に、気持ちの通じ合わぬ寸前の所でやって来るそのお節介に甘んじる日々が大阪の魅力である。ただし、集団での味わいに身を投じなければ、楽しくないのは何処でも同じ事。独り離れて冷ややかに見守ってしまう今では、其れは遠い思い出にならざるを得ないのかもしれない。
 ただし、そんな冷たさの中にある空虚な言葉の遊び・思考の遊びに拍車を掛けつつある身は、矢張り大阪の水が合う自分ではないか、と思う。東京人としての冷ややかな思慮深さの現出よりも、全てを遊戯として扱ってしまう大坂人の心意気の良さに、江戸っ子の気質さえ感じる。其れは、大正の頃には下町として残っていた、半村良が過ごした浅草とは全く違ってしまった東京の下町を姿を見て、失望した己だからだと思う。まあ、阿佐ヶ谷に期待するのは俺の浅墓さかもしれない。

 大坂のケチ臭さを、家の中の薄汚さに顔を綻ばせるのは其れを知っている俺だからである。ぴっかりとした東京のマンションを大阪に持ってくることは出来ない。同じ清潔を装うにしても、薄く埃を被っている床でも其れで善しとする寛容さが大阪にはある。
 大阪の娘に関しても、何処か鈍臭さを禁じ得ない。きりりとした表情は似合わず、ぼんやりとした人生の奥床しさ強かさを秘めるのが大阪の娘たる由縁である。これは谷崎順一郎も同意するところである。
 うーむ、この点については生々しい体験に基づくところがあるので、正確であること請け合いか。その辺は保留にして置く。

 云うなれば、悪口を悪口として受け入れる余裕が大阪にはある。現在の東京は田舎者が集い、東京という都会を幻想しているに過ぎないので、個々によるその垢抜けなさの程度は激しい。
 ただし、ファッションの先端の街としての渋谷に勤務地があり、日々駅前の交差点に集う若者達を眺むれば、リベラルというキーワードに寄り添う垢抜けた装いに、目を引き付けられるのを禁じ得ない。
 ただ、まあ、窃視に優れたる己だからこそ、擬態に惑わされぬ自分を形成したいと思うのは、文章から醸し出される心の響きに呼応するのを好みとする俺だからである。

update: 1997/01/29
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