書評日記 第214冊
ビーグル号航海記 チャールズ・ダーウィン
岩波文庫

 やたらに、日記という単語に過敏に為ってしまうのは困りものなのだが、気になるものは仕方が無い。
 ただ、自分の日記を別として考えれば、人の行動の記録を見るのは、人の思考を覗き見る、つまり自分という個では達成し得ない思考の道筋を見ることに対して興味深く思う。俺にとってその興味の基準は「事実」であると思う。知らぬ事実から得られる思考の遊びに紛れるのが、俺の望むところなのではないだろうか。同じ事実を共有した時の同意なり反意なりの感情を持つこと自体に俺は楽しみを見つけているのかもしれない。

 この航海記を読んだのは、「モラル・アニマル」で知ったダーウィンの成功者としての性格を知りたかったからである。3冊に分れる程の長い記録を読むと、些か退屈であると思われる。ただし、当時の海洋生物の研究者や博物者として世界の事実を丸ごと理解しようとする者達にとって、様々な生物の描写が事細かに為されているのは興味深いことであったと思う。
 生物学の百科事典として、此れを読み進めるのも一興である。様々な節足動物について、また、ダーウィン自身が発見する進化論の証明を為す生物達の記録が書かれていると思うと、深く洞察の根を張り巡らさざるを得ない。
 無論、科学としての生物学に興味があれば、の話であるが。

 どちらかと云えば、ビーグル号の航海の記録として、南アメリカを巡る姿を思い描く方が楽しい。世界地図を頭に描き、数々の諸島を巡るビーグル号を想う。上陸して後、ヨーロッパ人であるダーウィンから見る原住民の奇妙な行動を想像し、笑いを禁じ得ないとしても不遜ではない。
 カルチャーショックを受けるよりも先に、原住民の生活水準の低さに呆れ返り、必死に服を着させ、キリスト教に帰依させようとする宣教師達の姿を想像するのは難くない。そうせざるを得なかった現実と、同じ人間としてダーウィン自身と原住民を彼が比較し、違いをはっきりと感じ、人間としての同一性を彼が信じ得なかったとしても彼の責任ではない。
 社会学を知ると解かるのだが、社会の中の人間として生きる言動の中でこんなにも共通点が多いのか、ということに驚かされる。原住民が神として太陽を崇める姿に、ヨーロッパ人がキリスト教を信じる姿を重ね得なかったとしても無理ないことである。笑えるのは、心の奥底では土着の信仰を持ちつつ、表面的にはキリスト教を信じつつ毎日曜日礼拝を繰り返す住民達に、宣教師達が安堵した事実である。信仰の自由を論じるわけではないが、信仰そのものが社会で議論されるのは、死に対して恐怖する現代人の愚かさの露呈ではないだろうか。死に対する生への執着と他人との快楽の比較が、優雅とは云えない現代人の日々を捻出していると云っても過言ではない。其れは、働くという事に関して其れそのものに快楽を見出そうとする幻想に過ぎない。ゆるりと過ごす、当時のヨーロッパ人と南アフリカの原住民を懐かしく想うのもまた善しとしたい。

 航海記によって、俺は何を読み取るのか知らない。ダーウィンの航海記であるという事実、そして読了という事実のみを欲しているのかもしれない。
 俺個人に関しては、進化論の証言者としてのダーウィンに惹かれて読むわけだが、そのような事実をこの本から得るのは難しい。いや、得られないと思う。

 まあ、以上の戯れ言を思い付いただけで、此れは善しとしたい。さほど興味惹かれるものではないことを、此処に明記しておくのみである。

update: 1997/01/29
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