書評日記 第222冊
戦後日本共産党私記 安藤仁兵衛
文春文庫

 文章力に長けてしまうと文章それ自体に耽溺してしまうことがある。言葉というものが理解の本質だとすれば、口に出した言葉そのものが彼自身の思考と直結しているはずなのだが、そんな事はないのが一般に知られた結論である。では、何を信用すれば善いかと云ってもさほど確実な手は無い。彼の過去の行動と言葉を照らし合わせてみて、今後の行動を推測するしかない。決定的な結論が出れば、其れについて悩むのは時々にして、信頼を持って些細な言動には目を瞑るのが相手を知る処世術であろう。
 様々な理論や用語を知ってしまうと、其れ等がどのように絡みあっているのか知りたくなるのが「統一」という言葉に魅了される俺の性癖である。すべては、分断して決別を求めるのではなく、根底にして頑固な共通項を含みつつ表に出るものがそれぞれの分野となって、人々の営みの中の専門的な部分を助けているに過ぎない、と俺はしたい。分派に陥って少数となるよりも、行動するための人数を確保するのが良いと思う。

 清らかな思想は清らかであるが故に理解されにくいらしい。大学紛争から端を発している政治批判の一派であっても、同じ道をたどらかなかったのは、そのイデオロギーが清楚過ぎたからなのかもしれない。同じ根を共有していても個人個人の思想の理解の深度は違うだろうし、増して其処から端を発して自分の環境(感情も含む)を良くしようとした時、それぞれの初期値は違うのだから論戦熱くなってしまっても仕方が無い。ただ、その議論の熱さ故に、議論のみにのめり込んでしまえば単なる学者連中の戯言に過ぎないのである。行動をする事を目的とすれば、論戦する場合はそれ程多くないのではないだろうか。

 全体に問う上で個としての威力は其れ程大きくない。ただ、それでも個人として動かねばならぬ時はどうしたら良いのだろうか。
 様々な団体の中で分裂が起こる。最初の団結は反発のための団結に過ぎず、会が発足し継続すればその舵を何処に向けるか、つまり反発のみではない積極的な行動の向きを何処に決めるのかで揉め事が起こる。個人的な事情であるとして嘲笑うのは簡単ではあるが、純粋に思想で以って会の方向性を確かめる時に必要なのは、やはり言葉の端々ではなくて、後に行動する其の過程がどちらの向きであるか、ということのみを突き詰めて考える方が効率的であると思う。
 即ち、個々の思惑は単なる好き嫌いに還元される事が多いし、用語の使い方が後になって考えれば同じ結果を成すに至る僅かな揺れでしかないことに気付くべきであろう。無理をして細則を決める必要などない。敵対する者同士ならば、細かいやり取りは作戦として必要であろうが、会としての同志ならば其れを模する必要も無いということである。

 結果的に、学生運動やマルクス・レーニン主義や安保運動は何を残したのであろうか。原水爆の反対運動は、俺に何を残しているのだろうか。原子力学科として俺は絶対的に原子炉による発電を支持するわけだが、日々の不安を不安とせず、時にして思い出したようにただ「反対」のみを叫ぶ輩には所詮何も出来ないであろう。無論、何も出来ないからこそ「反対」を叫ぶわけだが、それならばもう少し長々だらだらとやる方法を取るのが一番だと思うのだが……。

 ソ連が崩壊して社会主義というものを夢として終わらせてしまった資本主義者達が、実は足元を救われているのを知っているのか怪しい。しかし、危なっかしい快楽ではあっても、縋り付かなければ生きていけないならば、金銭を守って逃げるのも良かろう。しかし、知っている者しか知らない、最終的にも知ることはないというのは、何処か不公平を感じるが仕方が無い。反って無駄を無駄と知らずに過ごす方が楽なような気がする。
 知りすぎる不幸と思慮を持つ不幸、知らぬ者には絶対解らないのだから教えることの出来ぬ不幸、理解されぬ不幸。どこかに相互理解の絆があるのかと探すわけなのだが、自らを自らと知らなければ知りえない認識なのだから、俺と彼との共通点を見つけるならば、その言動に注意するしかないのだと思える。

update: 1997/02/02
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