書評日記 第223冊
ならぬ堪忍 山本周五郎
新潮文庫

 とある作品を残して後は全て焼き尽くして呉れ、と遺言を残した山本周五郎ではあるが、幸い焚書にはならなくて此処に残っている。
 確か「さぶ」が有名であったはずだ。兄弟愛を描いた作品であったが、詳細は忘れてしまった。「人情裏長屋」を読んだのは浪人の頃だったと思う。
 子母澤寛著「勝海舟」を読み、幕末の武士達の姿に共感を覚えた。明治維新以後には余り関心が無く、西郷隆盛等の明治以後に残る偉人達よりも、幕府を落とし新政府を建設するという滅亡から再生という変遷の真っ只中にある志士達に気分を躍らせた。坂本竜馬を慕う当時の俺は飛翔という言葉を糧にして、前進している途中に死むることを望んだわけだが、生死を賭けた闘争の場に身を晒せば一瞬にして玉砕してしまう自分の姿が見えるようでちょっと悲しかった。つまりは、環境に恵まれなかった訳なのだろう。

 俺が山本周五郎の小説を読むのは久しぶりである。今までは其の「人情」という部分の気恥ずかしさから逃げ出すために読んではいなかった。
 さらさらと流れる江戸の情緒と、気丈溢れる武士達に共感する訳なのだが、幕末の史実に大いなる興味を抱いていて、歴史の知識欲に飢えていた俺は、彼の描く些末な史実の組み合わせや爺むさい教訓とは遠ざかっていた。
 逆に云えば、「山本周五郎は「人情裏長屋」で十分である。人情話を得意とする彼の著作は、読むこと自体を楽しむ時以外は手に取らずとも良い」と云う思い込みがあったのだろう。また、平田弘史の漫画を愛読していたので、武士としての勢いは其れから知るだけで十分であったのかもしれない。

 ただし、「ならぬ堪忍」で新しい山本周五郎を発見したのは、最後の一編であった。江戸を舞台にした人情話・教訓話が多いので、彼をその道の達人として崇めるわけなのだが、その裏には、いや、彼もこういうものを書くことが出来たのかという奥の深さを感じる作品であった。
 誠に現代風な其の作品は、昨今発見されたと云う原稿からであるが、野坂昭如著「童女入水」や筒井康隆の内部的な空恐ろしさと同等のものが其処にある。山本周五郎にもこのような面があったかと思えば、先に読んだ「人情」の部分を改めて考え直す必要が出てくる。
 人情話とは云え、歴史の中で翻弄されてしまう人達の話であるから、現代庶民の憂さ晴らし的な要素は無い。勧善懲悪というよりも、虐げられる人の中から出てくるへこたれない温かみ、それは人としての強さというものが其処にはある。其れが俺の唱える「人情」という響きなわけなのだ。其れを実践する者が武士であり、彼らの拠り所になるのが武士道であろう。

 御奉公という事実に縛られるのは、矢張り信念であろう。己の身には一片の価値も無く、御家のためのみに生きるとしても其れは正しい生き方なのである。無論、全ての者がそうでなかったのは昔も今も変わらないだろう。だからこそ、立場という事実を認識せずに、個としての我儘を通すのは何処にいても見苦し、一貫しない態度に嫌らしさを感じる。
 そのような部分を秘めている作品を残したのが山本周五郎であり、江戸という舞台を主として作品を残した彼の態度なのだと思う。

update: 1997/02/03
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