書評日記 第224冊
多文明世界の構図 高谷好一
中公新書

 著者によると世界は24の社会に分類されるという。最初の方に載っている地図で其れを示してある。此処で云う社会とは、社会学の定義する文化圏の相当する。著者自身が実際に歩いてみて隣とは違った部分にラインを引いていく。民族性とか歴史的な思想の伝播、地理的要素、などを極力排して、其処に住んでいる人の違いを逐一観察した所に彼の分類の説得力を感じる。
 世界地理を知っていると便利だし、思考の助けになる。幅広い知識(専門家に及ばないにせよ)を持っていることは、様々な分野の組み合わせ、視点を変えて眺めるという楽しさと正しさを与えてくれる。無論、求める者には有効ではあるものの、求めぬ者にはつまらん所業であろうが、そういう堂々巡りの主張の違い的な関わりは願い下げにしたいので、其れは其れまでという事。固執する者は固執していれば良い。

 世界が統一に向かうのか、分化に向かうのか、がこれからの世界観に問われるわけだが、ソ連の崩壊の事実を知れば解かるように世界は分化に向かっている。何か違いを見つけては反目し、其れにより仲間内の結束を固めるというのは、頑なな思考形態を作り出すだけなのだが、やっている本人は解からないのだろう。カタルシスの憂き目に巻き込まれないだけの冷ややかさを持つのが善しとする事だろうか。
 地理的要素も歴史的背景もあわせて、民族は民族の中で結束を固める。無論、完全な個としては生きていけないし、他の文化圏に対抗しようと思えば、自文化圏の中で政治的・経済的な結束を固めざるを得ない。其れが更に細かい政治圏を作ってしまう。また、自治という形で、地理的要素から更に細かい地域分けが起こり、それはどんどん小さくなる。終いには、家族という社会になり、個人に落ち着くわけだが、余り細かく分類しても意味がない。だから、緩やかに共通項を見つけて、大きなひと括りを考えることが必要である。
 其れが、日本という国であったり、アジア圏であったり、世界という一つの集団、人間という種であったりする。此方も限りなく大きく括ることが出来る。
 ま、社会学での括りの問題であるので、括られる社会集団の命名は専門家に任せる。

 文化によって分断され、その事実を知った時、他文化圏との交流の時に何を譲歩すべきかを知ることが出来る。つまりは、暗黙の了解というものを意識するべきなのである。暗黙の了解は、歴史的な習慣、文化的な習慣、共通知識、文化圏内のモラル、になるわけだが、其れを明示的にする場合にはどうしたら良いのだろうか。
 自らの習慣を客観視する事、つまりは、他文化圏から自文化圏を眺めてもらうと一番良い。其の中で不可思議な部分を述べて貰うと、暗黙の了解が明確になる。無論、他文化圏と自文化圏との暗黙の了解の部分は発見し得ない訳だが、円滑な交流を進めるためには、そのような共通項は必須であるのは証明された事実である。
 そのような習慣の違い、つまり思考の違いを認識し、逆に共通項を利用することで相互の理解というものは初めて起こる。更に深めようとするならば、相手の習慣を自らに取り入れるべきであろう。

 つまりは、以上の事をやって来たのが、日本であり、日本人であり、日本という文化圏の性癖なのである。此れは俺自身が日本人であるという事に自己言及される。何故か「和」という思想が其処に描かれる訳である。

 此れ等の事は、彼我の社会を考えるならば当然覚えておくべき事なのだが、なかなか理解されないし、実行されない。だから、簡単に排除しようとするし、簡単に爆弾を落とそうとする。どちらも損失が大きいのだから、止めておくのが無難な所であろう。
 其れでも止めないのは、矢張り相互関係というものが心労甚だしいからなのかもしれない。発展があろうと無かろうと交流を閉ざしてしまうのは、所詮一代限りと思われる快楽中枢の囁きだとしても、そうせざるを得ない輩に哀れみを感じざるを得ない。
 まあ、巻き込まれないだけの注意深さを持つべきか。

update: 1997/02/03
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