書評日記 第225冊
フィッツ・ジェラルド短編集 フィッツ・ジェラルド
新潮文庫

 アメリカの感受性の寵児……と書いてあるからそうなのであろう。日本の感受性の寵児は誰なのか、と考えてみるが夏目漱石と云ってしまっては悲しすぎる。司馬遼太郎ではないか、と思う。日本を日本のままに愛したのは、司馬遼太郎ではないだろうか。

 ジェラルドが書く小説を読むのは此れが始めてである。「華麗なるギャッツビ」を読むべきなのかもしれないが、今一つ気乗りがしない。ヘミングウェを思い出させる展開の中で、余りにも実りの無い男達の物語に寂しい共感を禁じ得ない。翻弄されるのは結局のところ男性であるのは、利己的な遺伝子の示すところだと思う。
 どちらにしろ、真剣になれば真剣になるほど滑稽になってしまう男性の人生というものが此れ等の短編の中に潜んでいる。野卑な男性としての魅力を消し去り、人間としての発現を為そうとすればするほど、彼は社会地位的にどん底に押しやられる。社会的な競争を競争として捉えることなく死んでしまう方がよほど心地よいことなのかもしれない。

 彼は生活のために短編を書き散らしたと云われる。数百編に及ぶ短編の全てを網羅するのは不可能らしい。また、網羅する必要も無いのかもしれない。其れ等全てにジェラルドは何を込め続けていったのだろうか。それとも、単なる宣伝文に過ぎなかったのだろうか。
 中途半端なまま死んでしまった手塚治虫のように、大量生産型の作家は社会が覆い被さる忙しさに負けたのかもしれない。エンターテイメントとして作られる作品群に喰うか喰われるかの生活を見出すのは苦しい作業であったと思う。しかし、本人にとっては、其れでも彼の幸せは其処しか無かったのかもしれない。全ての作家は彼の人生の全てを書き得ないまま終わってしまう訳だが、働く事自体がそういう中途半端な作業だと諦めてしまえば、何かひとつだけでも作品を残せたという事実によって自分を慰めるしかない。後代の読者は、其れを読む。後代の研究者はあくせくして収集活動を続ける。誰にせよ、その作業は完成はしないのである。

 「緋が走る」で「生活8芸術2」を知るが、そうかもしれないと思う。小説家にとって「用」とは何だろうと思うが、雑誌等に掲載される配慮という所だろう。大江健三郎もそうだが、感受性が高いのは普通の生活を送る上で苦しい。時に考え過ぎるという点に余念の無い人生を送ってしまえば、其れでしかないと諦めるしかない。
 短編を書き続けなくてはならなかったジェラルドの人生は、結局の所、書き続ける事で解消していった彼の感受性ではないだろうか。どうやっても、幸せになれない自分に気付いてしまった時、死を選ばぬのならば、ただ漏洩する所を見つけようとする人生かもしれない。
 日々を気持ち良く送るには、用と美の比率を微妙に調節するしかない。気分の切り分けという所だろう。

 死んだ後の名声は欲しくない。ただ一時の幸せに溺れたいと彼は思ったであろう。

update: 1997/02/03
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