書評日記 第226冊
悪魔のいる文学史 澁澤龍彦
文春文庫

 文章から声が聞こえる者にとって、文章は蓄音機のレコードと同じ効果をもたらす。魔術書の呪文を唱えるのは、静的な文字というものから動的な音声への変換を意味する。頭の中で響く声はいずれに属するのだろうか。耳を聾するような大音響を頭内で発することが出来る俺としては、後者、いや、それ以上の効用があると思っている。

 文学の歴史の中に埋もれてしまったヨーロッパの作家達を掘り起こすわけだが、それは文学史の穴埋めをしているに過ぎず、当の掘り起こされた作家達が喜ぶ手段は失われてしまった。
 綿々と後代に伝わるのを益とするのは後代に住まう我々だけで、作家当人にとっては彼の生活は足掻きの連続であったに違いない。我々は、ただ博物館に飾られる王冠を見るかのように、触れ得ぬ歴史に目を向けるだけなのかもしれない。

 心理学的にオカルトの位置がはっきりした。神と天使、其れに対する悪魔を存在させることは、神の言葉に従わぬ意思の自己弁護の現われであった。絶対なる良心があり、不貞を為す行動を弁護するならば、淫魔を想定して其れに引きずられる自分を想像した方が、良心の呵責、つまりは変わらぬ過去の事実と記憶からの逃げ道を用意することが出来る。人が神という絶対なる善の象徴を作り、其れに帰依することを集団の掟のひとつに定めた時、其れに反する行為の説明、犯してしまった仲間を排除しない緩やかな態度の現われとして悪魔の存在が必須であった訳である。
 当時、ほとんどの者は、悪魔を悪魔として隅に押しやり、ゆらゆらとした不定な良心をしてそれで善しとしたわけなのだが、人間の感情というもの二面性、多重性、自己、他より見る自己等の現在の心理学の中心を為す所に興味を持ち始めた者が、オカルトをオカルトとして神の部分から隠し始めたのである。

 社会性の欠如、逆に人との関わり合いを渇望しつつも、真の密接な関係を持てぬ失望感により孤独へと走る文学者達が、悪魔を中心とした、即ち自己の内省を中心とした小説を書き始めたとしてもおかしくはない。オカルトの様々な行為や用語が逐一心理学の用語と対応していても不思議ではなく、真剣に悪魔と対峙して神を気遣うならば、社会秩序の中に当然現われる異端の者の担う役割として、進化を促す数々の妖しい行為に耽ったとすることが出来る。無論、個としての苦悩は並々ならぬものに違いない。

 数々の乾いたオカルト研究の中で澁澤龍彦の悪への追求が一際光るのは、彼が孤独であったからではないだろうか。裁判沙汰になっても守らねばならぬサドの文学は、三島由紀夫が自らを語るものと同じなのかもしれない。
 フロイトが数々の稀本を集めようとしたのは、彼の理論の根底に夢に流される深層心理があったわけだし、性というものに固着する彼自身の進化行動であったのかもしれない。一発逆転を為そうとするフロイトとユングは、現在に多くのミームを残した。証明不可能な心という産物を、拠り所が無いままにではあるが科学として捉えた行為は、人々が其の影響下を意識するか否かは別として、後の社会に大きな影響を与えている。

 もし、人が神を創らなかったならば、悪魔は存在しないだろうし、即ち揺らぐ心というものが存在しないであろう。しかし、信仰というものを発見して、罪というものを作ったのは、集団を集団として意識して結束を固めるには必要な心理なのだと思う。
 社会が大きくなって、かつ複数の社会に属する自己に耐えられない時に心が破綻する訳だが、狂気に沈むのが楽なのか、一歩踏みとどまって綱渡りに興じるのが楽なのかは俺には良く解からない。
 ただし、気付いた事によって、元の社会に身を戻せない自分を見るようになるのは確かな事である。

 不可解な儀式を重んじるオカルトの中では、社会を保ちつつも空になった心が必要である。偏ってしまった良心のバランスを保つのがオカルトとしての行為なのだろう。
 絶対なる良心を感じる時に、巨大な悪魔を想定し、論理の化け物に対抗するためには、やはり理解しかない。つまりは「名」を付けることである。これは「名」を呼ばれると消える悪魔の存在と無縁ではない。

update: 1997/02/03
copyleft by marenijr