書評日記 第227冊
読書画録 安野光雅
講談社文庫

 読書をして感想をメモをしておく形式で見本となる本ではないだろうか。安野光雅が本を読んでそれに合った絵を一枚付けている形式に彼の絵もさる事ながら、感想として評として描かれる文章に独特の切り出し方を見出す事が出来る。其処から読み取れるのは安野光雅本人そのものである。彼の知る知識をちりばめて書かれる部分に面白味があり、其処に人の感想を読むという楽しさが存在するのではないだろうか。
 このような読書日記をインターネット内で希望する訳なのだが……。
 書評といっても3種類ある。本の紹介として内容を要約して紹介した頁。内容に関して評を加えた頁。本を読んでの感想を含めた頁。
 情報とは云え整理されていない散漫なインターネット上での遊びの中で、自らの読みたい本に出会う確率が低いならば、其の人が其の本をどのように読みこなしたかを知りたい。其処に共感があれば人としての会話を楽しむことが出来るかもしれないし、反感だとしてもそのような読み方をするかもしれないという違いを見出す事ができる。少なくとも、単純な本の紹介は余り必要とも思われない。出版社として購買意欲を湧かせるのであれば別であるが、個人の頁ならば個人的な意見のひとつぐらい書いて欲しいと思うのは俺だけではあるまい。

 評というのは難しいもので、文学作品にケチを付けるような真似はしたくない。そもそも俺はサラリーマン然とした本を好まない。直ぐに役に立つような浅墓な本を読みたくない。其れは拝聴という形式が嫌なのであるが、結局の所、小手先の技術では小さな仕事しか出来ないと思っているからである。出来る事ならば、本質に当たるべきだと思う。マルクス思想に触れるのならば、最初は入門書でも良いかもしれないが、最終的には「資本論」を読むことを薦めたい。
 つまりは、良いものというのは其れ程多くない訳である。凡人は凡人だからこそ溢れかえる。凡人よりもやや上の者が何かの著作を為す能力を有する訳なのだが、所詮凡人のやや上程度では、其の程度の理解しか出来ない。彼らの噛み砕きは結局のところ理解に達し得ていない部分が残っている。専門家として本気で取り組んでいるか、本当に物を解かっている「プロ」ならば(それがどんな分野であろうとも)、彼なりの理解の仕方で習得し、彼なりの語り方で示してくれるはずである。
 もし、其れを聞き手の無知から理解し得ぬと彼が云うならば、彼こそが其れを理解していないに過ぎない。更なる共通項を求めて対話を続けるのが解かっている者の証拠である。それ以外は全て似非を気取っているに過ぎない。
 即ち、説明できぬ能力の者に理解の証拠は無い。

 美というものに戯れる事が出来るのも能力がある印である。また、本を読み、その情景を頭に描く事が出来るのも能力のある印である。娯楽として何に戯れるのも良いのだが、人としての厚みを持つならば、知的な会話を楽しむだけの余裕が欲しい。
 何にしろ、王道は無いことを知るべきであろう。

update: 1997/02/03
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