書評日記 第228冊
三四郎 夏目漱石
新潮文庫

 三部作として、「それから」、「三四郎」、「門」が挙げられている。それを意識して読み進めた。
 学生として東京に三四郎が出てくる。美彌子に惚れる。告白するが、鮮やかな勘違いの末に三四郎の想いは届かず、再び彼は普段の生活に戻る。ただ、それだけの話である。
 「それから」もそうだったが、作品を解説してしまうと一言で済んでしまう。全体としては、男女の緩やかな感情があって其の過程を描き、緩やかに幕を閉じる感触を得られる。あたかも演劇であるかのように話が進められるのは、明治という未だ日本の小説がそれ自身を模索していた時代だからなのかもしれない。国文学的に云えば、江戸時代の浄瑠璃等に目を向けて関連を求めて考えるべきなのだろうが、俺としては、現在読むべき作家の一人として夏目漱石を挙げ、その作品のひとつひとつに当たっているのだから、彼自身から染み出る作品のみを吟味すれば良いと思う。また、そのような読み方が相応しい。

 難解風な捻りを持った「我輩は猫である」とは違い、抒情を抒情のままに書き綴る清らかさが「三四郎」にはある。それは、主人公三四郎の純情さというものが前面に押し出され、その背後にある暗い時代背景を思いつつも、彼の想いは彼自身の想いとして実行せざるを得ない彼個人の事情というものに共感を覚えるからである。躍起になった自己鼓舞と同様に、自らの幻想する恋という感情に素直に従う三四郎の姿が其処にある。
 三四郎を取り巻く友人達の騒ぎは、この作品が新聞小説として発表されたが故の雑音かもしれない。しかし、小説とは書かれた時代と無縁ではいられない。特に連載という形式ならば、作家が日々生きた時代背景が作家自身に与える影響が、即ち小説の一部として綴られると云っても過言ではない。独立した存在では有り得ない其れは、時代に対する作家自身の個人的な感想を意味している。つまりは、芸術と同様に(無論、小説は芸術であるのだが)政治的因子とは無縁では有り得ない訳である。

 人として昇華為さるべき出力手段が小説という形態を映し、ひとつの作品が後代に残る要素は、作家自身の時代への目の特有さが問われる。あらゆる伝達手段についても同様だと思えるのだが、其れは時代が欲している需要にマッチする事が必須条件である。
 ただし、必須とは云え、人は其の時代に培われたからこそ其の時代の者として育つのであるから、後は現時代に対して常に見る目と考え続ける頭、そして覚える記憶力があればそれで善いのではないかと思えてくる。後は、内部から出る欲求と与えられた職種が巧く噛み合うか否かではないだろうか。それが、時代に打ち勝つ、時代の乗るという表現であり手段であろう。

update: 1997/02/04
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