書評日記 第229冊
われらの狂気を生き延びる道を教えよ 大江健三郎
新潮文庫

 大江健三郎を先生と崇めるのは止して欲しい。彼は考え続けたに過ぎず、結果的にノーベル賞作家としての地位を獲得したに過ぎない。其の経過の苦しさをどのようなものかを知る事を出来る資格は、同じ孤高の道を歩まんとする者にしかない。結果として得られた新聞紙上の大江健三郎という人物は、此れ等の若き日の苦悩を全て記憶しているのだろうか。孤独で辛いという感情を内々に秘め、考え抜く事で消化していく人生は、幸せとは云えないが充実した日々であると思う。
 作家の感情の表われとして小説を見ると、どうにもならない自分のもどかしさに汲々となる姿が垣間見られる。其の姿を見て、自らの状況を重ねて共感を以って自らの感情の安堵の地を得る訳だが、孤独というものに対して不幸も幸福も無く、そう為らざるを得ない自分を省みた時、大きな溜め息しか出ない。
 読まなければ生きていけない人生ではないのだが、読まざるを得ない本という存在が、俺の重荷である。知らぬ事は知らぬままに過ごすのが思考せざる軽やかな輩の処世術であり、其れが現代社会の中での生き方なのであろうが、何も決定的な事(戦争等)が起こらない我身をしてこう日々考える事を求めるのは、やはり矛盾を押し重ねた複雑怪奇な社会に身を置く己だからかもしれない。それは、「使命」と云う形而上的な単語で表わされるものの、社会学的・生物学的にそう為らざるを得ない個としての悩みなのかもしれない。

 一見「性」に固執するように見える大江健三郎の小説ではあるが、他の小説を読めば解かるが其れは手段のひとつに過ぎない。恋愛という物を乾いたものとして描き、ただ在るという現象の中に性行為の描写があるに過ぎない。数々の人々に求むられるべき恋愛の姿に性の姿に辟易してしまって、ただ不機嫌に筆を動かして猥雑な描写を連ねなければならなかった彼個人の状況が其処に有るのではないだろうか。
 障害児「光」を家族に迎え入れる決心をした途端、彼を殺したい欲求に駆られる自分がなかったか。歓びも哀しみも全て白痴の息子に制御されて、其処から子供のように得られる事象を有難く拝聴するしかない大江健三郎の姿があったのではないだろうか。
 自分一人ではどうにもならない現実に苛々と募らせて、じたばたする憤懣を小説に書き綴る事は、読者が居るか居ないかは別として、彼の精神状態を安定させるために必要なトルクであったに違いない。無論、喜ばしい彼の姿が時々あるものの、「人生の習慣」にあるように5つの期を繰り返さねばならぬ自分の性癖にひれ伏すしかない状況を乗り越えるのみに一生懸命になる姿が其処にはある。
 その他は、乾いた時間の流れに過ぎない。

 無償の愛を与える上で肝心なのは、平然を装い返事をしないことである。関与されることに喜びを感じてしまえば、相互関係が発達し与られる自分を期待してしまう。大江健三郎の障害児「光」の関与は、意識的には見返られる事のない、無限の延長線上にあるキャッチボールである。投げても音さえしない。光の笑顔は、親への返事なのか、単なるひきつれに過ぎないのか。
 自らの子を育てるという作業に於いて自己発見を繰り返すことにより、大江健三郎は小説を書き続ける。

 詩というものが曖昧模糊としたものだから、伝わるのは論理よりも感情の浮気に過ぎないから、小説に賭けるのではないか。彼が詩を諦めたと書いている部分に、詩というものが考えるという部分よりももっと別な次元にあるからそういう結論に達したのではないだろうか。
 対話手段としての詩は、余りにももどかしく自己を自己として埋めるしかない無力感がある。無論、俺が詩を書かないからそういうのであるし、逆に語りとしての小説のカモフラージュに重きを置き、語り聞かせるという長々とした時間の中に一瞬の閃きより引き伸ばされたモーツァルトの交響曲と同じ現象を感じるからである。人生の様々な場面を想像し、時間に溺れることを清しとするからなのかもしれない。
 浮かぬ顔をして、切々と文字を重ね、眠りの前に「神曲」研究する大江健三郎の姿に、人としての生涯を重ねるには余りに辛いが、凡人としては其の一端に触れる事を時々許して欲しいと思うのは、俺の弱さなのだろうか。

update: 1997/02/04
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