書評日記 第237冊
人間・歴史・風土 坂口安吾
講談社文芸文庫

 第一印象は「訳が解からん」である。古代の日本をツラツラと坂口安吾の興味のままに紹介するわけだが、興味の無い人には何を言っているのかさっぱり解からない。しかし、坂口安吾の語り口、つまり彼自身文体のFANである俺にとっては、其れ等は問題ではない。
 この書評日記も相当解かり難い。自分で読み返してもさっぱり解からない時が多い。気の乗らない時は、読んでいる途中で眠ってしまう。しかし、気合を入れて一句一句読み進めようという気力のある時は、全てが理解できる。そして更なる想像の翼を広げる事が出来る。読者を想定しない文章では無いのだが、極力読者を排してしまい、書き手の意志を最大限にむき出しにした結果に得られた文体が此れである。圧縮された言葉は思考の基として俺という存在がある。好む好まざるに関わらず、読まれる読まれないに関わらず、厳然とした俺という存在がこの文章に含まれている。其れが「書評日記」を書く意味であろう。

 坂口安吾という人物から奏でられる文章は「堕落論」を始め、俺に多大な影響を与えている。坂口安吾が生きたという証拠が俺を安心させる。また、彼の作品が本として残されているという事実に俺は俺自身の存在価値を見出すのである。
 他人はどのように生きるのか知らない。別にサラリーマン然としてして暮らしている人達を卑下する訳ではない。しかし、サラリーマン然として安定してしまう俺を俺は嫌う。自らの状況を安定としではなく、常に変化を遂げるものとして捉え、何かに変化させるという常なる行動が己をこのような言動に走らせる。一体、何をしようとしているのか解からないまま、解からないままにも進まねばならない己という存在を、時には辛いと思いつつも頼もしく感じる。現在のところは「孤立」という事実を持て余しているが、それは退屈に他ならないので、動いていれば問題はない。活動とはそういうものだ。

 坂口安吾が捻り出す日本史は、学者が捻り出す歴史とは異なる。細部に拘り過ぎるその神経が全体像を掴み切れない彼の欠点なのかもしれないが、作家としては相当な利点である。つまらぬ事をつらつらと書き連ねる。「高麗神社の祭の笛」では、祭りでの笛の音による会話を紹介するわけだが、そんなことはどうでもいいのである。しかし、細部を突いて話をして説得というか無駄な知識慾をごりごり進めるのが安吾なのである。
 博物学者タイプなのかもしれない。南方熊楠のように様々な分野に手を出す。興味が続く限りの人生を送る。確かに、ひとつの目標として構想はあるのだろうが調べるうちに分け入ってしまう彼の執拗さが面白い。
 とりあえず、一般の意見を捲くってみて、何か面白いものはないか、と探すのが彼の楽しみであったのだろう。

update: 1997/02/08
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