書評日記 第238冊
楡家の人びと 北杜夫
新潮文庫

 とある頁を捲ってみて溜め息を吐くのは此れで最後にしよう。その度に鬱状態になるのは解かり切っているのだから、全く関係ないものとして過ごせば良い。かつての初恋の人のように想い出にするのが良い。そのためには現実味を帯びさせないことが第一である。
 人の不幸を願うよりも、自分の不幸を嘆く方が良い。己の中の痛みにただ独りで耐えておく方が良い。だから、遠くの者として追い出してしまおう。寂しさを確かめ続けるのは良くない。

 精神病院を経営する楡家の零落の日々を綴った話である。時代は大正から昭和の終戦までである。精神病院の家族という点で、フロイト心理学が入っている部分は多い。昭和34年に北杜夫が其れを意識したかどうかは解からないが、内省を主とする楡家の家族は、それぞれ家という部分を意識しつつ自分の生き方を模索する。
 三島由紀夫が「楡家…」の市民性を絶賛している。夏目漱石や森鴎外の作品には無かった市民としてのありのままの生き方を描いた昭和の作品として大きな評価を与えている。生き方というものは前進的なものであるが、市民が市民として生きる生き方の中には、どうにもならない社会性というものが含まれている。この場合、精神病院というエリート志向も含ませつつ、その中での家族の言動に焦点を当てて、その人々の生き方について考察を行なっている。
 実は、昨今のように深層意識として残っているものの戦後が遠くなり日本の社会が安定してしまっている現在、人は生き方を意識しなくなった。生き方を向上的なものと見なす者は少数となり、社会人となった途端、下克上を意識しない安定した収入と少々の幸福に市民は市民性を得、其れに満足するようになった。TVメディアが発達し、娯楽と学問がないまぜになり、切羽詰まった金銭の悩みがあるわけでもなく、一応大学を出てのんのんと暮らす事が出来れば満足であるという事実を確認し、其れ以上を狙う必要性が無くなった。つまりは、生き方を考えなくなった今、人々は、既に市民性に安住している。此れが、果たして文学のせいなのかは解からない。第二次世界大戦を終え、戦後の復興を為し、経済大国日本を作り、出来たのは、絶対的な価値を見失いつつある若者達である。
 所詮、相対的な価値でしか個人を幸せを計れないとすれば、人は決して幸せにはなれない。何故ならば、求める物を持たない者には満足は有り得ないからである。しかし、其れに気付かない事によって、一応の幸せを演じる事を覚えてしまっているのかもしれない。其れに気付かなければ一生気付きはしまい。ただ、気付いてしまった者は、自己の絶対的な価値を求めるべきであろう。つまりは、自分の生き方の再発見をする訳である。

 「楡家…」の時代では、自分が自分のままであること、つまり零落であろうとも復興であろうとも、進み続ける己というものを実感すればそれで善しとする思考形態が必要であった。敗戦という事実を重く見過ぎないために、アメリカという国に負けたという事実から精神的な癒しを求めるために、裏切り者である自分を反省しないために、自分は自分である事が必要であった。それが、戦前と戦後の求める物の違いであると思う。
 豊かな国に俺は生まれ、豊かなままに育った。多少の挫折を味わい、失恋を味わい、今はままならぬ自分という存在を持て余しつつある。進むにせよ退くにせよ止まるにせよ、己で考えなければならない重みを感じている。しかし、相対的な価値観を元にして自分を自分として扱っていく教育を受けた俺には、拠り所が無い。ただ、浮遊する己だけがある。楡家の家族のように、時代に翻弄されるだけを望むのも人の人生である。望むにしても、この先の辛さは変わらないだろう。ならば、現実は現実として積極的に受け止め、対峙していく態度を一貫して取り続けるのが、辛さを感じない方法ではないだろうか。

 市民性というものに安住し、逃げを意識せず暮らすのも良かろう。しかし、「逃げ」というものを意識した時、相対的な価値では幸せにはなれぬ己を形成してしまった時、人は自らの拠り所を求めて、生き方を模索するべきだ。其れが独立するという事だろう。
 だから、行動する自分を発見するのもひとつの方法かもしれない。己の文学思想は其処にあるのかもしれない。

update: 1997/02/09
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