書評日記 第239冊
デカスロン 山田芳裕
講談社

 山田芳裕の漫画で一番好きなのは「大正野郎」である。芥川龍之介を好む主人公が大正という時代に憧れる。最後のハッピーエンドも含めて、山田芳裕の作戦と勝ちという感じがする。
 「デカスロン」は陸上十種競技を対象にした漫画である。山田芳裕の迫力というものが全面的に表わされる。牛乳屋の万吉が日本記録保持者となる訳だが、従来のスポーツ漫画のような直向きさは一切無い。万吉個人の感情そのものが現われるだけであり、彼独特の表現が其処に在るだけに過ぎない。其れが日本記録という結果であるのは単なるおまけに過ぎない。どちらかといえば、個人として報われぬ万吉の姿が其処にある。「しわあせ」もそうであるが、個人の流れというものと気持ちというものの違いが其処に現われる。其れが個人としての悔しさを感じさせる。その悔しさを持つのが個人である事を知らされる。

 以上のような、表面的な結論を導き出すはあまり良くない。「デカスロン」という漫画の本来の楽しみ方は、漫画としての正統な楽しみ方、つまり、読んで「ああ面白い」と思うだけで良い。迫力を如何に表わすかに尽きる山田芳裕の絵柄を堪能し、其れを演出するだけの素材があればそれで良い。要は、言葉では表わせない感想が其処にある、そのもどかしさ、無駄さを、書評日記で書き綴っているに過ぎない。

 以下は俺の単なる感想。

 波乱万丈という単語に相応しく、非常に個性的な万吉の姿は、其れそのもので完結している部分がある。しかし、万吉の割り切れなさは、十種競技の外にある。ひとりの人間として生きようとする時、十種競技は単なる遊びに過ぎない。しかし、その遊びの部分に全力を使おうとする姿が描かれる。其処に葛藤が起こる。
 競技場での万吉は、もはや個人としての万吉ではない。期待される十種競技者としての万吉である。しかし、競技者ではあるものの、勝つという目的を前面に押し出した万吉は、何も関係なくただ個人の意志の塊に過ぎない。
 12巻での嵐寛との接戦で、スポーツとしての悟り開く嵐寛を描いて尚、煩悩としての万吉を描き、そして山田芳裕は万吉を勝たせる。しかし、勝者としての万吉は彼女の心を得る結果とはならない。強いと見られるが故に、強いままにされてしまう万吉の姿が其処にある。
 万吉が競技者として強くあらんとすればする程、彼は強くなってしまうのである。其れは身体的にも心理的にも強くなる。しかし、個人としての弱さを忘れる事はできない。その比例する蟠りに他人は気付かない。ただし、気付いた所でただ弱くなってしまう自分が其処にある。だから、弱さを隠して強くならざるを得ない。

 強い者はそれなりの犠牲を払っている。しかし、其れを理解されることは決してない。なぜならば、理解された途端に彼は弱くなってしまうからである。
 過程にて挫折することを好まぬならば、弱さを引き千切るだけの強さを必要とするだろう。其れは膨大な心理的な負担を要求する。己の思考の渦に引き込まれそうになり、そして足掻く。
 他人の知らぬ所での葛藤は他人は知らない。仮想であっても見守る者がいれば良いのかもしれない。自分を見放さないだけの強さがあれば、人は自分に負けることはなかろう。それの連続に耐えるしかない。

update: 1997/02/10
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