書評日記 第242冊
新エミール 毛利子来
ちくま文庫

 直ぐに内省に陥る癖があるのが俺の欠点なのだが、最近は更に対人恐怖症の欠点が露呈しつつある。身内での馴れ合いが出来ないのだから、仲間に入れない自分が其処にある。自分という価値が何処にあるのかと自問すれば、自分の中に在ることをはっきりと云えるのであるが、浮遊した価値よりも、目に見える価値が欲しい。心苦しいのは心より話せる相手がいないからだろう。ただし、今は友人が居るような雰囲気だけを持つ、会話をしている雰囲気だけを持つ仲間内には入りたくない。それは、ただ、さもしいだけの自分が残るので俺は好まない。つまり、俺はもはや会話が出来ない。
 多分、この状態を脱却するためには、本を読まない事と、インターネットに関わらない事だと思う。詰まらない会社の仕事でも頭の中で思考を繰り返しているだけならば、その思考のみに戯れる事が出来る。しかし、このように文章にして書いてしまうと、思考の戯れを記憶していしまう。
 一体、俺は何をやっているのか?未だに解からないが、ただ己の意志を自由にする手段を得た所で満足すべきなのかもしれない。

 中島梓が解説で毛利子来の育児記事を読んだとき彼自身を見たと語る。「新エミール」はサブタイトルに「育児と教育について」と書かれているように育児書としての趣が強い。しかし、育児というものは父親・母親の為す大人の行為なのだから、其処には彼らの考え方が含まれる。つまり、幼児教育について考えたとき、幼児そのものを分離して考えることは出来ず、大人社会の中での幼児という位置、社会の中で過ごす大人に全面的に頼らなくてはならない幼児という存在を意識する必要がある。子は親をして初めて存在するのである。
 この時、毛利子来という人が書く育児書は、毛利子来自身の生き方に他ならない。新聞に書かれたわずかな記事に、中島梓が強烈に惹かれるものがあったとしても過言ではない。

 子供に対してあやふやな接し方をしてはいけない。彼は矛盾を抱えるほど頭が複雑ではない。両親の矛盾した行為が、彼の頭を混乱させる。逆に、両親の態度に非常に従順であるが故に、無用な押し付けであっても、彼は其れを実行する。いずれ、自己が形成されて己という存在を己が物にして生きるとしても、幼児期においての基盤は重要である。其れは、拠り所であるから、あやふやなままで残されてしまった基盤は、後の自己形成を危機に陥れる事もある。また、自己形成自体の無くす事もある。
 ただし、実際に育児書というものが必須であるかは怪しい。かつて、育児書の無かった時代、つまり、俺の両親の時代は両親を育てるのに方針なぞ存在しなかった。両親の両親の考え方があっただけで、それは彼らが育ってきた歴史を再現し続けているに過ぎない。それでも両親は育ってきたし、立派に親としての役目を果たしている。それはそれで良かったのだと思う。
 今日、育児書が氾濫してしまうのは、核家族という歴史の切れた状態に置かれる家庭という現実もさることながら、価値観というものがあやふやになってしまった日本人が何かにすがっていなくては自己を保てない不安を象徴しているのではないだろうか。言葉を覚える時期や立ち歩きの時期を定めて、育児書と我が子を突き合わせ一喜一憂するのは両親だけなのである。子は子として、生きる事ができるのだから、両親がするべき事といえば、其れを補佐するだけに過ぎないだろう。本来ならば、育児書とは大人が子供に対する時の心得に過ぎぬべきだ。
 しかし、現代の日本社会を顧みれば、大人という存在であっても立場がかなり複雑になってきていることが分かる。そういう意味で、不安な親を安心させるのが育児書の役目であろう。

 子供を育てるという行為は、育てる事のみではなく、親として育てられる行為も含み、家族を形成し、親の社会的な不安も抱えながらも子に対応することである。それが、様々な学問を含んでいるとしても間違いではないし、実際そうであろう。

 何を学ぼうとして本を読むのだろうか。考えずにはいられない自分を持て余して、残さずにはいられぬ思考を弄んで、俺は一体、どうするのだろうか。
 母親からの影響を知ったとき、俺の母親への態度は急変してしまった。知る事のみが全てではなかろう。しかし、知ってしまったならば、考える事により最善を尽す事が肝心だと思う。
 だから、今は、孤独で良いのだと思う。耐えられぬならば、それまでとして考えれば良いのではないか。

update: 1997/02/11
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