書評日記 第246冊
記号学 ピエール・ギロー
文庫クセジュ

 記号とは云うけれど、世の中全てが記号で出来ている……と云っては其れでおしまいなので、かなり範囲を限定した記号学として読むといいのかもしれない。
 数学を理解してしまえば、aだのxだのという本来の記号そのものが数学に頻出するので「記号」という用語自体に偏見がなくなる。雑音を排して、極力本質を突こうという部分に記号学の面白さがあるのだが、逆に余りにも普遍的な議論過ぎて面白味が感じられない部分も多くある。
 ポストモダン、ポスト構造主義、脱構築、等の根元を求める志向が「記号」という部分に寄っているのだとしたら、記号学を学んでみるのも悪くないかもしれない。
 ただし、今までの主観的な見方を一切排する所に意味があるのだから、一般的な考えと自分の考えと普遍的な考えとを分離して考えられないのであれば、やめておいた方が良い。単なる皮肉屋に成り下がる。それは、フロイト心理学を性の疑似科学と捉えることと等しい。理解と納得が融合するところに自己の発展がある。

 「記号=イデア」と考えてしまうのは、俺が心理学と哲学とを知っているからであり、それでもなお、記号の部分に踏み止まれるのは、数学を理解しているからである。一般的な物理学を身に付ければ、「美」というイデアはあっても、「美」という記号が無いのが判る。イデア論では主観的な問題に取り組む事ができるのだが、記号ではそれが出来ない。客観性があるかないかの議論は別として、対話や文章や事物というものに対して、伝わるものが何であるのか、という部分に記号学は焦点を合わせる。
 無論、主観たるものは排されるのだから、無味乾燥な意味そのものだけが伝達されるに過ぎず、そこから得られるものは単なる事実だけに過ぎないはずなのだが、人は感情というものを持っているから、単なる事実から自分なりの感想を見出そうとする。記号を受信する事は読解であるが、それを理解する過程に加わるのは個性であって、最終的に感想に落ち着く。個性の部分の雑音が、様々な感想を産み出すのであるが、個性の中に論理性を含ませることで、出てくる感想は普遍性を帯びてくる。それが批判というものかもしれない。
 どちらにせよ、議論というものを効率良く進めるためには、感情というものを常に制御しなくてはならない。個人的な過去から導き出される物語とは違う所に相互理解があることに気が付けば良いのだが……なかなかそうはいかない。

 世の中に記号が氾濫するのは、複雑な社会の中から一般性を際立たせるためだと思う。交通標識のように記号然としているものから、ロールプレイングゲームのような物語の中に記号を含ませて記号の上に乗せる主観という楽しみもある。
 記号の上には誰でも乗ることが出来る。無論、「誰でも」という普遍性が記号の記号たる由縁なので当たり前の話である。その記号に感情を乗せるという行動は、感情を感情として表わす言の出来なくなった社会の複雑さにある。
 「たまごっち」という生命を弄ぶゲームが危険という意見には賛成であるのだが、それは「たまごっち」というゲーム自体に否があるのではなく、「たまごっち」を必要とする社会性に責任がある。学生という立場、子供という立場、若者という立場、隣人という立場、様々な立場が自己の自由さを束縛する。当然、束縛されなければ生きては行けない幼さを抱えている訳なのだ。ブームというものは、爆発的繁殖期を超えた所にあるので、其れがブームになるかならぬかは別の話である。少なくとも、自己の感情を表わす手段を「たまごっち」という明らかに記号に見える存在に固執しつつある、という部分が露呈しているのだと思う。ただ、其れはロールプレイングゲームが流行る頃に気付いて欲しかったのだが……。
 人が人に接するところの面倒臭さを面倒臭いと思うのは良いのだが、排他してしまう行動を皆がやり始めたところに危うさが存在する。無論、社会が複雑になったからこそ、その複雑さに悲鳴を上げた人達(特に学生)が数々の記号然としたゲームに没頭し、それで頭の混乱を収める。また、自己の感情というものを其れに注ぐ。複雑化した人間に辟易し、簡素な対応を求めるわけである。

 以上が、俺が「記号学」を読み下しつつ思った意見なのだが、果たして、これをインターネット上で公開して良いものなのか、判断が付きかねる。ただ、解からない者には決して解からないのだから、それほど影響はあるまい。
 所詮、本質的な会話なぞ「できない」ことは確かなのだ。

update: 1997/02/13
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