書評日記 第245冊
熱帯安楽椅子 山田詠美
新潮文庫

 泣けるという感情を保つ事が良いか悪いか解からない。ただ、28歳にしても未だに涙を流す事ができるという事実は、意外と貴重なものなのかもしれない。「せつない」という用語で済ますことができる山田詠美の小説なのだが、俺にとっては響き過ぎるぐらいに響く。当然、「ベットタイムアイズ」の頃を想うために起こる現象なのかもしれないが、結局自分ひとりでは何も出来ない環境を眺めて、溜め息の代わりに溢れる感情を涙として流しているだけなのだろう。
 
 解説で森遙子が冒頭で「はじまりは肉体で、なりゆきは心にまかせる」ことを公言できる作家は、山田詠美しかない、と豪語している。作家に限らず、一般の人も含めた場合、どのくらいのパーセンテージでそれを実行できる人がいるだろうか。
 肉体のみに固執するという事、恋でも愛でもなく、まずは性器の結合から始まるという山田詠美を俺はみだらだとは思わない。むしろ、清らかな素直さを感じるのは何故だろうか。
 想ってみても想っても通じないものならば、接してみてみないと解からない鈍感さに埋もれてしまう人間というものに対して、恋だの愛だのという、道徳的なおべんちゃらは一切必要ない。其処には、言葉はいらない。思想さえなく、ただただ感触だけを確かめるという行為自体に溺れることこそが始まりではないか、と感じさせてくれる。

 それは、そういう経験のもとに置かれてしまった、俺という存在だからそう感じるのかもしれない。他人のモラルよりも、厳然と己の中に潜んでいる譲れないモラルというものを前面に押し出してしまえば、成り行きでしかない恋愛というものを、やはり成り行きでしか終わらせることが出来なかった自分というものを、「熱帯…」を布団の中で読みながら、ずっと泣いているという行為に埋もれさせなくてはならなかった。
 1か月という月日が経ちつつも、想い出すほどの想い出の無さに呆れつつ、それしかない己の寂しさを、思考ではなくて、ただ感情のままに置くしかない現実を甘受するしか俺には術がない。

 ただ云えるのは、己の根底の無さに弱さを引き出してしまえば弱くなってしまう己の不甲斐なさに、ひとつの楔を打つというその行為そのものが、このような状態を続けさせるのである。救いは、様々な小説に触れることによって得られる新たな思想と其処から導き出せる自己の再発見を癒しとして受け止める行為を続けることを知ったことであろう。
 それが「方法」なのかもしれない。

 誰もが何かを拠り所にしている。ただ、己を知る毎に己しか信じられなくなってしまった、また、人を信じる事により裏切りさえもなくなってしまった自分に対して、更なる孤独を感じてしまうのは、淵に沈むしかない現実を憂慮する俺だからなのであるが、ひと言も声を掛けることができないのは、己の中にある弱さを感じて、其処に溺れない決心をしつつある俺だからである。甘えとしてもだ。
 もっと、別な所に拠り所を持って、寄り添っているが普通であるが、俺という存在を独立させるためには、どうしても現状が必要なのである。

 それらのジレンマを抱えつつ、いや、最早ジレンマとは思っていない。遥かなる想い出として、深く沈ませてしまおうという自分に対して抗わぬ自己の論理性が憎い。冷静な状況判断をすれば、そうでなくてはいけない自分をそうするだけなのだろう。
 故に、己の可愛さに対して、己を痛めつける術しか俺は持たないのかもしれない。

 現実を以って、成り行きにまかせることのじれったさを感じる日々が、いつまでも続くのかもしれない。
 それが辛い。

update: 1997/02/12
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