書評日記 第244冊
69 sixty nine 村上龍
集英社文庫

 解説で林真理子が「このタイトルは人を喰っていて…」と書いているが同感である。ピンクの地に青い文字で「69」では、ちょっと退いてしまう。

 69というのは1969年の事で、この時、著者村上龍は高校生だった。東大入試が停止した時であるので、学生運動真っ盛りの時期である。
 佐世保という土地で過ごす村上龍の高校生時代の一部を描いたものであるが、まさしく、自分の思う通りに行動する自由さ、己を前面に出す躍起になる精神に則って、彼は学校にバリケードを築く。コンサートを開き、映画を撮る。

 大学の学生運動は1年続いた訳だが、その後に入学した者達は、「出遅れた」という劣等感に縛られたそうだ。がしがしに暴れまくった世代から見れば、きちんと入試を受けて、きちんと授業に出る後輩達をふがいないと思ったに違いない。後輩達は後輩達で、関わることのなかった学生運動というものを先輩に説教じみた口調で聞かされていたに違いない。
 そんな学生運動が盛んになっている社会の中で、高校生である村上龍が発散の場を求めたのだろう。実に有意義な発散の仕方だったと思う。はっきり言ってうらやましい。

 あとがきで村上龍は、書いていて気持ちいい小説だったと語っている。彼が一番素直な時だからだと思う。
 他人がどのような青春期を送るのか解からないが、あの頃の馬鹿な自分を俺は今でも引きずっているような気がする。早熟な人は、高校生時代に自己を完成させてしまい、その後の人生は其処でストップしたままの感情でいるという。俺の場合、ドロップアウトぎみなのだが、大学時代は一貫して高校時代の己というものを自覚して過ごしていた。夢にしろ希望にしろ、高校・大学・社会人という段階を経るのではなく、俺は俺で其処に居て、周りの風景だけがどんどん流れてきたような気がする。28歳にして高校生気分というのも変な話だが、あの頃の時点でストップしているのかもしれない。

 現在俺の一番の悩みは日々をどうやってこなしていくかということだ。社会人となって会社で働き始めると、大抵は仕事にのめり込むのであるが、俺の場合は其れがない。小説家という目標はあるにせよ、一体何処から、というのが未だに掴めないでいる。
 俺自身が遊びを知らなすぎるのが心配である。これほど遊びを知らなくていいのだろうか、と村上龍を読むと思う。高校の頃に人付き合いが出来なくなって以来、孤独というものが苦にならなくなった。いや、苦としなくなった。
 ただ、今は、何故か独りでやらなければいけないような気がする。内省にしろ探求にしろ、独りで出来るという領域を確かめなければならないような気がする。

 俺が俺自身を幸せだと思う時が来るのだろうか。来るのであれば、それで良いのだが、濃密な日々に倒れる前に来て欲しいと願うだけである。

update: 1997/02/12
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