書評日記 第248冊
高丘親王航海記 澁澤龍彦
文春文庫

 天竺に行く話。60歳を過ぎる高丘親王が円覚と安展を従え、旅をする。男に扮する秋丸を連れて、妖しい世界を垣間見る。
 単純にそれだけの話である。

 一体この作品から何を得れば良いのだろうか。ただ、澁澤龍彦の絶筆となった作品であることを噛み締めて無理矢理にでも感想を引き出しておこう。

 達観してしまうという事は、若い頃にはよくない事とされている。無論、若年という年齢の中で、達観するはずが無いという意図から発せられているのだと思う。
 しかし、老年になりそれなりに実体験を積み重ねることにより、人は達観の域に近づくことを許される。哲学的な哀しみをたたえた西洋風の老人となるのか、悟りを開いた微笑みの東洋風の老人となるかは別として、人を人として感じざるを得ない、自分というものを確立させてしまったが故の姿が其処にある。
 60歳にて天竺を目指す高丘親王は、精神的にはとても若い。好奇心が逞しいものの、独りで思考し得る頭を有すれば、簡単には動じない安定を得ることができる。それでいて、旅の中に知るということを忘れることのできない事実が、彼の言動を若々しく保つことができる。
 つまり、親王の若さは、澁澤龍彦の若さに他ならない。知識欲としての悪への誘いに忠実であり、表現することの自由さを突き詰める彼の数々の探求の結果は、結果として彼に幸福であったか否かは別として、このように俺につた得るべき数々の作品を残してきたことに、彼の表現方法を見つけることができる。「高丘親王…」の旅をする事実が、妖しい世界を進むという事実が、即ち様々な世の中の矛盾を示し、それに動じない親王を形作ることによって、目的を果たそうとする澁澤龍彦の姿が親王に重なるのかもしれない。

 物語というものの深みは、何も書かれていない部分にあると思う。何ひとつ具体的な事が書かれていないストーリーの中から、何かを掴もうとする読者の姿があればこそ、物語は読者に何かを与えてくれる。
 ただ、受け身にならざるを得ない、現代人の娯楽への寄り添いに俺は楽しみを見出すことができない。一瞬だけの妬っかみの後、やはり詰まらない時間だけが残される。それは、多くの時間が暇である会社員という席を得ているからなのかもしれない。

 以下は、ちょっと日記。

 1日中、席に着いてコンピュータに向かう生活の中で、退屈な俺は、インターネットの中から何かを得ようとした。しかし、誰も与えては呉れない詰まらなさの洪水の中に辟易してしまった。楽しみを見つけようと足掻くたびに人を傷付けるような暴言を吐き、自分さえも自虐の海に沈み、最後の砦さえ面白くなくなった場というものに、苦笑よりも呆れしか感じ得ない。
 奪い取ろうという知的な遊びに関与できる者はそれほど多くなく、暇を持て余す者は皆無なのかもしれない。愉悦の度が低くあれば良かったのだが、生憎それほどの快楽では満足せず、きりきりと痛みが感じるような知的な遊びを欲求した俺ではあったが、人は無理らしい。

 そう、砂漠に水を撒く方が幾分マシかもしれない。

 退屈な毎日の中で、自分を弄ぶためには、究極の面白さを追求するだけなのだが、様々な手法を選ぼうとはしない普通の人達に排除されしまったのか、俺が彼らを排除してしまったのか解からないが、広いと思える世界に狭い概念を持ち出そうという人達に、もはや俺は希望を持てない。
 だから、さようならの言葉と共に、消えてしまうのは、俺の敗北のような気がするけれど、決して重なることのない遊びには、俺はもう付き合うことはできない。それは、単なる愚痴なのかもしれないけれど、解かっては呉れない悔しさを再び言葉に出すには、俺は達観し過ぎてしまった。

 掴もうとする意志を持たない人はいないというのは俺の誤解らしい。緩やかにしか流れ得ない日常をそのまま理想の地に持ち込むのはやめて欲しいのだが、そうすることしかできぬのは、やはりインターネットも日常社会の一部と化した故なのだろう。つまりは、最早出会うことはあるまいということ。
 心よりの言葉というものを信用せずして、声を掛けることを拒み、単なる憶測と自己満足に浸るのは勝手だが、全ての人がそうでないことを俺は祈る。単なる情報だという電脳の世界を単なる娯楽に下してしまったのは、一般ともいえる思考停止を常とする人達に違いない。ただ、彼らがいなければ、成り立たない社会というものに支えられて俺は此処にいるのだから、あながち憎む気にはなれない。
 素直な心を忘れ、軽やかな同意だけを求めるのは好きではない。深い思想の中にひたすら沈むのは余り画期的なものとは云えないが、己を形作る方法がそれしかないのだから、ダイビングする己を引き止めることはしない。泳ぐことを覚えた子供は、より泳ぎをスマートにし続け、抜き手と呼吸の仕方を覚えた。教わるというよりも、人の動きを見ながら覚えた。 

 今、誰ひとりにも人に心を通わすことが出来ないことを知ったとき、この身が軽くなった。

 知って欲しいというのではない。知らねばならぬという事実に対して果敢に挑むということ、その懸命の部分の楽しさを共有できる者はいない。
 もはや、俺の鉄壁な心理防壁が崩れることはないと思う。
 他人でしかありえない現実がけじめという障壁を作るならば、決して人は人を理解し得ない。あまりの馬鹿らしさに言葉がでない。

 許されるのは己の言動に篭もることであり、阿呆とは云わない分別を持つことに反吐なる思いを重ねつつも、己の希望の無い未来に、不安さえ覚えない自分を、ぼんやりとした人生に沈めるだけなのであろう。

 Good Luck

update: 1997/02/14
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