書評日記 第249冊
七瀬ふたたび 筒井康隆
新潮文庫

 俺は、筒井康隆のFANはやっているのだが、筒井康隆の研究をしている訳ではない。三島由紀夫の云った「己の人生は詩そのものである」と同様に、俺は「己の人生は小説そのものである」と思っている。これは、人生というものはたった一つの私小説であり、誰でもひとつだけは小説というものが書けると思っているからだ。波乱に見えようと、平凡に見えようと、私小説はその人そのものに属するのであるから、決して他人の私小説と重なることはない。それを意識して行動すれば、自ずから自分の進む道というものは決定されているような気がする。
 俺が、筒井康隆の行動を模するのは、彼への信奉がそうさせるのと、そうしなければならない俺の人生=小説に他ならない。逆に云えば、己を小説化してしまった故の行動なのかもしれない。
 ただ、自分の行動に自信を持つ、または、揺るぎない自信を持たせるためには、何処かに根拠を置くのが良いのかもしれない。それが、俺にとっては、筒井康隆という作家であったに過ぎない。

 七瀬シリーズは、「家族八景」・「七瀬ふたたび」・「エディプスの恋人」の3作品で完結する。解説で平岡正明が「SF作家は順境に弱く、筒井康隆は単なるSFに陥らなかった力量を持っていたから、七瀬シリーズを3作品で打ち切った」と書いている。
 手塚治虫著「火の鳥」のように、作家がライフワークというものを欲し、それに準じた形で人はライフワークというものを見出そうとした。生涯教育という単語は其処に端を発する。継続というものが積み重ねを示し、成果=作品を生み出すという考え方が、人をライフワークという人生の中でのそれぞれの時期を超えた主張を発見させる。
 ただ、誤解をしてはならないのは、それが自分を発展させる積み重ねを意味するのか、自分を狭い範囲に閉じ込める、または、閉じ篭もるための甘い閉塞空間を意味するのか、をよく考えねばならないことだ。長編、連作、という考え方が、単なるFAN空間に陥るのは容易い。その作品自体に己を従属させるのか、己に作品を従属させるのか、に違いが生まれる。それを平岡正明は平井和正の人狼シリーズと比較する。
 実は、鳥山明や高橋留美子等の漫画家にそれは当てはまる。漫画という理解の程度が低い読者層を持つが故に、FANは作家自身を脱却させないことがある。むろん、固定空間からの脱却は、必ずしも良い結果を生むとは限らない。生活の糧として作家活動が含まれていればなおさらであろう。また、作家というものは、必ず彼の思想と彼の生活とのジレンマに苦しまざるを得ない。
 ただ、誰でも人生が私小説であるならば、その中にも様々な事件と転機を加えることが、私小説たる人生を豊かに過ごす糧となるのであろう。それが、筒井康隆の絶筆宣言という苦労だとしてもである。

 実の所、「七瀬…」は今となってはSFアクションに陥ってしまっている感じがする。「家族八景」のようにホームドラマの中で超能力者を描く作品が、最近の9時のTVドラマで流れるように、「今となっては」の部分が多分にある。
 エスパー合戦としての読み込みをするのは今となっては余り適当なものではない。当時としては、七瀬という超能力者(テレパス)をキーにして、幻魔対戦のような流れを作ったのは、彼の功績であるのか平井和正の功績であるのか、問題になったかもしれない。ただ、P.K.ディックの一連の超能力者を考えて哲学的な考察を加えれば、能力というものの自制と能力者の有るべき姿、それに伴う精神異常、思考形態、等を己の中に取り入れていくのも悪くない裁断だと思う。

 無論、小説を小説として、暇つぶしの道具として使うのも良いのだが、思考の広がりとして、無理矢理の引き延ばしをするのも、暇つぶしの一貫として悪くはないだろう。

update: 1997/02/16
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