書評日記 第250冊
表徴の帝国 ロラン・バルト
筑摩文庫

 全体にちりばめられる数々の写真が、小津安二郎を追った「東京物語」を思い出させる。見本用のロウで出来た食品を作る工場を執拗に取る部分が印象的である。ロウ食品は、大阪の道具街でも買える。日本にしかないそのイミテーション食品は、まさしく日本の「表徴」の部分を示しているような気がしてならない。

 訳者、宗右近によれば「表徴=記号」だそうだ。彼によれば、記号という用語を使わなかったのは、1対1対応を為す訳語、すなわち思想の転化を行ないたかった故に、「表徴」という用語を創ったそうである。
 事象に名づけられた用語は必ず二重性を秘めざるを得ない。事象そのものを表わすための言葉と、事象の意味を為す言葉を形作る。それは「存在と時間」にも詳しいのだが、存在というものが、観察者無しでは存在せずに、思考される時間の中にのみ存在するという論説に他ならない。当然、ややこしい事を考ない時はそれで良いのだが、一旦、ややこしい空間に入ってしまえば、それを意識するべきだろう。それを使いこなす部分に、「脱」という意味がある。

 西洋人ロラン・バルトだからこそ、日本の中に数々の記号が見えたのだと思う。日本に住み、日本の習慣の中にどっぷり漬かっている日本人には、それはわからない。何故ならば、外部的な観察というものは、社会を見下ろす部分にあるからである。逆に、東洋人である俺が西洋を見る時、西洋の西洋たる部分がよく見えてくるはずである。キリスト教を始め、ヨーロッパの数々の帝国意識とアメリカの正義の矛盾は、彼らには解からない。外側から眺める者だからこそ意識できるという部分を持つ。

 歌舞伎の女形の例が一番易しい。
 女形は女の形を男が演じるのであって、女そのものが演技をするのではない。男の中から見える女の部分を男が見つけ出して女の部分を演技するのである。それは、存在として女では有り得ないものが、女を模倣するところに存在そのものと表徴の違いが出てくる。それを素直に受領する土壌が日本にはある。
 日本人を考えた時に不思議なのは、成り代わる自分を無意識に行なうことだと思う。将棋の駒のように、主が変われば、新たな主の本で懸命な奉仕を行なう。彼が行なうのは奉仕という行動であって、主とは関係ない。また、彼の意志は、奉仕という行動自体にあって、それが個としての全てでしかない。だから、主を容易に変えることができるのであるし、狭い国土の中で培われた日本人の近所付き合いは、一見馴れ合いともみれる緩やかな競争の中で、発展してきた。

 ひょっとすると、日本人は「心」を持たないのではないか、と思う時がある。個に属する心は、嫌悪するものは嫌悪し続けるに違いない。社会の中で葛藤をこなし、心の動きを成長させることで、他者との障壁を確かめるのが西洋的な教育の仕方である。
 しかし、日本では、同一民族であるために幅広い深層意識=暗黙の了解を持っている。昨今の多層な社会がそれを崩しつつあるのか、なおもって、共通な根底を願望しつつあるのかわからないが、未だ男性社会然としている部分では、正論よりも協調性が求められる。
 正義というものを意識せず、単なる流れに飲まれることを望む日本人の姿は、全体としては経済発展を目指すのであるが、個としての存在は無視される傾向が強まっているのではないだろうか。

 傷つく部分を持つものが、傷つかないようにするには、自己を頑固に保ち、深い自省をするしかない。
 思考停止で言葉を発しない日本人の中で、俺は意識した表徴を学習し、更なるカモフラージュを身に付けるしかないのだろうか。

update: 1997/02/16
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