書評日記 第254冊
アフリカの白い呪術師 ライアル・ワトソン
河出文庫

 この世に才女というものが存在するのならば、出会ってみたいと思う。性というものは性を自覚した上でしか越える事の出来ない土地を持つ。捨て去るよりも、楽しむ性というものに自分を置くのも、ひとつの生き方なのかもしれない。
 さすがの一言しかでない。

 ライアル・ワトソンは博物学者である。以前「ロミオ・エラー」を読んだのだが、俺は内容を把握するに至らなかった。それだけの素養が無かったからだ。しかし、ユング心理学を知り、社会学を知り、文学を知りつつある今の俺には、「ロミオ…」も「アフリカの…」もよく理解できる。
 西洋宗教と東洋宗教の間にアフリカの原始宗教がある。原始とはいえ、幾千年と継承している彼らの宗教概念は、ひょっとすると、東西宗教よりも進化しているのかもしれない。

 呪術というものが、下卑たオカルトだと思い込むのは間違いである。心理学見地から云えば、訳の解からぬ現象を解明する科学に過ぎない。底流にある共通概念を表に出し、言葉とは違った数々の神秘を帯びた儀式とシンボルで表わされる言動は、先祖から伝わる処世術の知恵に他ならない。太陽を礼拝するインディアンのように、霊魂の声に従うアフリカ民族は、厳然たる共通のモラルを部族内に持っている。

 内容は、白人のボーシャという青年が、アフリカを旅する話である。アフリカの村々を探求する旅の中で、彼は呪術師として受け入れられる。蛇を扱い、癲癇気質を持つ彼の姿は、白土三平著「バッコス」を思い出す。癲癇という病理は、狂人とは違った神経節の混乱に過ぎないのだが、5秒とは持たない人類の総知識の歓びに晒されることを意味する。硬直する身体の中から出る叫びを、神なる言葉として観客が受け止めるのは、常ではない力に喘ぐ身体を目の当たりにし、それを本人も観客も認めるためのことなのかもしれない。ただし、過敏な神経から得られる研ぎ澄まされた感性からは、超能力とも思える神秘的な探索能力が得られことがある。それが、呪術だとしても、今の俺は驚かない。

 様々な認識の仕方がある。俺は、論理性により世界を認識する。日本という国に生まれて、西洋を感じつつも、やはり古来より続く日本の神話の下に身が置かれていることを感じざるを得ない時がある。
 神話というものが何故現在に於いて必要かと云えば、人は古来より宗教を必要としていたからに過ぎない。戦後、無理矢理ともいれる無宗教の自由に晒されてしまった日本人は、頑固であるはずの共通なモラルを見失いつつある。それが、第二次世界大戦への反省を十分に行っていない罪悪であると俺は感じる。従軍慰安婦にせよ南京大虐殺にせよ日本という国が犯してきた罪を知る事なしに、日本人が愛国心を持つことは出来ないと思う。
 なぜならば、共通認識というものが社会の安定に果たす役割が大きいのだから、神話を持たぬ、共通のモラルを持たぬ、共通の誇りを持つ事が出来ぬ、現在の日本人は、常に相互理解の複雑さに悩み続けなければならないからだ。だから、「知る」という事は大切な意味を持つのである。

 知ることにより、悪い行ないを未然に防ぐ事ができる。それは、抗うことのできない性欲を悪魔に模した西洋宗教にも云えることなのである。
 悩みに落ち、個人の社会性を失う前に、其処にあるべき古来の姿にすがるのも悪いことではない。それが、決定的な間違いを排除し、迂闊な言動に出ない配慮を生み出し、寛容と矜持を生み出す。

 信じることしか出来ないのであれば、信じることにより、遊びを楽しむのもよいかもしれない。才女の戯れと提案に荷担するのは、俺の望むところに違いない。

update: 1997/02/17
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