書評日記 第255冊
エディプスの恋人 筒井康隆
新潮文庫

 七瀬シリーズ三部作となっているが、最初の「家族八景」から三部作にしようと著者が思ったわけではない。ただ、「エディプス…」をシリーズの最後にしようと思ったのは確かなところだろう。

 七瀬が少年に恋をするところから物語が始まる。言わば、「落ち着くところにしか落ち着けない」という恋愛特有の原理が其処に描かれるというのは、安部公房の言葉である「すべての小説は恋愛小説の変形にすぎない」に準じている。
 少年の母親が失踪し、女神となって彼を守る部分には、心理学の云うところの母・息子の関係が描かれる。それを意図したかせずかは別として、最終的に母親である女神が、七瀬の身体に奪い取り、少年の童貞を奪うのは、アニミズムへの皮肉かもしれない。七瀬の姿に少年が母親の姿を映したという記述は、あまりにも当たり前過ぎるものの、そうならざるを得ない事実というものである。

 この小説から「妖星伝」や「宇宙皇子」を連想するのは難しくない。神という存在が、人に関与する時に、人は神の威力に対して、どのような態度をとるか、に言及される。
 「妖星伝」では、地球は神を育てる揺篭でしかなく、神が育ってしまえば、置いていかれてしまう人類というものを描く。「岬一郎の反乱」もそうかもしれない。最後に老人が云う「私達は、また、置いていかれてしまった」という科白は、無駄な争いの中にしか自分を見つけることのできない人間の虚しさを語っている。
 「宇宙皇子」は、現在連載中であるものの、荒魂と和魂という形で、神と仏を表わし、全てを無にする冷徹そのものの神という姿は、計り知れない神の意志という形で表現される。この小説からは、神というものが、人格ではなく神格という形で、次元の違い、目線の違いを認識させる道具になっていることが良く解かると思う。

 「エディプス…」に出てくる女神は、もと母親であったことから、その力を少年の幸せという部分にしか関与させない。すなわち、世界は少年の都合の良いように流れる。全ては少年を中心にして回るだけなのである。
 そんな中で、七瀬の存在が七瀬自身に危うくなる。七瀬はそれを認識し、苦悩する。自分の存在というものが、少年の幸せにあり、また、女神に作り出された自分という存在を持て余し、自分の意志というものが何処の部分にあるのかと、模索する。
 しかし、結局の所は、なるようにしかならない現実というもの、つまり、少年の恋人となるしかない七瀬がある。すなわち、彼女には選択権がない。また、少年にも選択権はない。しかし、それぞれ自由であることには違いなく、別れる理由があるならば、別れるという未来を作ることも出来る。だが、少年に恋する、少年に恋される七瀬という人物は、やはり其処に至るしかないのである。

 俺にとって、現実の恋愛がどうなのかは解からない。また、現実に動いている様々な人々との付き合い、現実に動いている事象が、どのようになるべきかは解からない。
 ただ、云えるのは、大江健三郎が「小説家は如何にして小説の中に完全な世界をつくるのかが問われる」というように、現実であれ小説であれ、自らが正しくあらんとするところは、正しく表現をし、それこそがより良い世界であると感じている。
 世界を構築するのは無論俺だけではないのだが、そうならんと欲しているならば、そうせざるを得ない自分というものを認識するところに、本来の良き姿を想うのは、間違いではあるまい。

update: 1997/02/10
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