書評日記 第266冊
フランドルの冬 加賀乙彦
新潮文庫

 フランスの精神病院での話である。日本人留学生コバヤシを巡る精神医の行動を綴る。

 この病院にとってコバヤシが異邦人であることに特殊性が与えられている。医長ドロマールの科白に「人は世界内存在として束縛される。これを脱出するには、狂人か自殺者になるしかない。狂人は、異常という事実性に転落することによって世界を拡大し、自殺者はもっとも正常な投企によって世界から脱出する」というものがある。常識と非常識の狭間で汲々となっているのが世の中の自己実現者であり、それが物理的に現実生活を送れなくなった人達が収容・隔離される場所が精神病院であり、その管理者が精神病医である。
 そんな、現実とは遊離した部分に、コバヤシは立たされる。異邦人であることにより、決定的にフランス人とは異なるコバヤシにとって任せられた使命は、フランスという場所を観察する目であった。

 コバヤシはニコルに恋をするわけだが、果たして、それが本当に恋であったのか、彼にはわからない。ただ、彼女を信じられなくなった途端、彼女から信用されない自分を残して、そして、ニコルとミッシエルとの間に何かあったのか無かったのかは関係なく、二人は別れるという結果に陥る。
 色々な精神病医が出てきて、精神病患者に接する。そして、同じ精神病医であるコバヤシに接する。果たして、患者が狂気である限り、精神病医が正常であるという基準は何処にもない。すくなくとも、すべてが精神病院内で行なわれる議論や治療や恋愛は、何処が正しくて何処が間違っているともいえない状態になる。
 むろん、正しいという基準はコバヤシ自身にあるものの、周りの様々な価値観の中で、彼は彼自身を保持していくことができない。それは、現実社会でも同じで、自己の絶対的な価値観を持っていない限り、浮遊する価値観=相対的な価値観においては、決して「理さ」を知ることはできない。基盤のないところにあるのは、浮遊する自己であって、どちらともつかぬ永遠に苦悩せざるを得ない自分だけが残る。見掛け上の円満に落ち着けば良いのだが、苦しい立場に立たされた時、信用できるものは自分だけなのであるから、頼るべきものを外側に置くのは、この小説のような思わず狂う精神病医に従ってしまう、己の無い状態に陥りかねない。
 そのような警告がこの小説にはある。

 一体、何が正しくて何が間違っているのかを判断せずに、行動を行なってしまう人達に、俺が腹を立てるのは不当であろうか。それは、実らなかった自分自身の恋という現実に対しての大いなる不満に過ぎぬのか。もしかして、俺自身が幸せになってしまえば、忘れ去ってしまう痛みや嫉みなのか。単に自分には無い幸福を羨む、下卑た感情に過ぎぬのか。何も出来ぬ、何も獲得はせぬ、何も未来の保証のない自分というものを省みて、ただ、自らの不公平を嘆き哀しむ子供じみた感情に過ぎないのか。
 解からぬものは解からぬようにしておこうとするのが、俺の態度ではあるものの、晒される現実というものに対して、考えてしまう頭を持った俺に対して、俺はどのような態度で臨めばいいのか。
 基準は何処にもない。ただ、信じられる己というものを捨て去るのを留めるべく毎日を生きているに過ぎないのかもしれない。それだけが、己にとって、本当の意味での正しさを表わしているとするのは、間違っているのだろうか。この苦しさが和らぐのは何時のことなのか。
 狂気に至る前に、異邦人の目を養うのが俺の姿なのか。社会が病的なのか、俺が病的なのか、その基準が今は見つからない。

update: 1997/03/02
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