書評日記 第265冊
ヴァーチャル・ガール エイミー・トムソン
ハヤカワ文庫

 久し振りにSF小説を読む。最近は、いわゆる純文学と学術関係の本に的を絞っているので、このような一見して娯楽性の高い分野は避けている。F.K.ディックの本は再読しようかと思っているのだが、今ひとつ新しいSF小説を読むに忍びない。
 夏目漱石や三島由紀夫を通読していると解かるのだが、小説の中でジャンルという柵を取り去ってしまうならば、何故か純文学ともいえる小説に手を染めるのは何か理由があるのかもしれない。少なくとも、ミステリーであれSFであれ、純文学の中に含められなくもなく、むしろ、「人生」という大きな括りをしてしまえば、洞察の深さ、そして、真剣さは、数々の純文学に及ばないのかもしれない。

 ヴァーチャルという形容詞が付いているが、アンドロイドとして生まれるマギーという少女の話である。女性学の頁からの抜き出しであって、SF的な読み方よりは、女性のSF作家、そして、女性の性というものを焦点に当てた読み方を行った。
 そうしてしまうと、400頁にも及ぶ長編SFなのだが、前半はまるっきりいらない。ストーリーの中に遊ぶにしても、後半への繋がりがなく、あまりにも助長な感じがする。多分、貧しい家族との触れ合いをマギーが学ぶという形で描きたかったのかもしれないが、その真剣さがいまひとつで伝わらない。

 小説の内容を書こうと思ったのが、できない。内容は、簡単なのだが、あまりにも散漫で、当たり前すぎる結末に嫌気がさすのかもしれない。はっきり言ってしまえば、面白くない。何処が面白くないのかと云えば、男性の象徴過ぎる科学者アーノルドの姿が気に喰わない。スラム街で触れ合いが、後半に生きてこない。ジャックインによるダンスをする女性が出てくるが、それほど反社会を意味していない。全くもって、全体に深みがない。
 唯一、目を引く場面は、最後のマギーの修理の部分であろうか。コピーからオリジナルを見る目というものは、新しい視点を与えてくれる。コピーはコピーに過ぎなく、オリジナルのコピーではあっても、別の存在としてのオリジナルの死を見て、コピーは自分の死に恐怖する。それは、人工頭脳の自己意識の発生を作者が意図していたのかは判からない。ただ、コンピュータ意識体のチューリングとの脱走は、あまりにもおざなりのような気がする。

 ただ、ひとつ。マギーがセックスをした時に「これ以上近づけないとしたら、人はなんて孤独なんだろうか」と思う。この一言だけ、己との意見の一致をみる。それを此処に記しておく。

update: 1997/03/02
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