書評日記 第264冊
終焉をめぐって 柄谷行人
講談社学術文庫

 大江健三郎著「万延元年のフットボール」と村上春樹著「1963年のピンボール」との対比に一番惹かれる。
 「万延元年…」の時にも書いたが、「終焉を…」を読んでいる途中に「万延元年…」を読み始めている。

 最近に俺の読書スピードは1冊/日のペースである。何故、こんなにスピードを上げなくてはいけないのか、と自分で思うのだが、30歳が近いという部分も含めて考えると、死期が近いのではないか、と思うことがある。生物的な死期なのかは解からないが、凝縮された時間の使い方を考えれば、しなければならない、という焦燥感に襲われているのかもしれない。少なくとも、ゆっくりとしていられない自分があり、走り続けなければならない自分が其処にある。

 哲学的な分野を考える上で、普遍性を保つために固有名詞が消える。誰それという固定の名前を言及することにより、高貴な神話から下世話な現実へと思考の海が濁る。それは、読者が意識するか否かではなくて、作者にとって、とある思考による象徴を身奇麗に文章上に転化するために、邪魔な雑音を排すべく、固有名詞という形式をとらない。
 ただ、小説の中では、感情移入なり物語の進行なりという制約があるためか、人を人と特定する要素が無ければ人は人を特定できないからか、何かの描写を必要とする。実は、それは過剰な説明なのかもしれないのに。
 過剰な描写を削ぎ落として、作者が作者なりの隠語を使って語るところと、読者が読者なりの経験から編み出した読解法を使うところとの重なりの部分に、何らかの読者なりの解答が得られるのだと思う。
 柄谷行人が読み取った部分と、俺が読み取った部分が重なれば、それは正しいのだろう。

 「歴史の終焉について」では、ソビエト連邦の崩壊の年である1989年を以って、歴史は作られないとしている。社会主義は、理念の上になる人工物であるからこそ、歴史になり得る。資本主義のような強者は強者のままに、弱者は弱者のままにという、一見人々の自由を重んじた主義にみえる社会では歴史は生まれない。とある熱情が多数を巻き込み、人類の情動となって社会を変貌させることは、もう有り得ないのかもしれない。そういう意味では、フランス革命のような、ダイナミック且つ衝撃的な歴史の頁は以後作られはしないだろう。全ては、ささやかな個人主義へと帰着するのかもしれない。

 「死語をめぐって」では、知識人という死語を語る。果たして、現在、知識人は批判の対象としての存在でしかなく、知識人たる人は存在しない。自らを知識人として誇示すれば、知識のない一般大衆=多数派の矢面に立たされぬに過ぎなく、その一般大衆を煽動する人達を喜ばすだけに過ぎない。
 ある意味では、皆が自分を中流と意識付け、上にも下にもならない、絶対的な価値を認めない、人との違いを認識しない、すべてが相対的な価値観に帰着し、すべてが自分の理解の範囲に収まらなければ気が済まない人達によって、本当の意味での知識人を世に送り出さなくなったと云える。
 スノッブなTVの普及が、知識とも知恵ともいえないゴシップに明け暮れる刹那的な快楽を満そうとする人達を作っているという事実に気付かない人達を俺は哀れむ。いや、そうなれなかった、俺自身を哀れんでいるのかもしれない。過敏すぎる自分を持て余しぎみである。

 感想ともつかぬ記録を残しておくのは、何かの繋がりを残しておきたいに過ぎない。それは、日曜日の夜の、陰鬱な不安を消し去っておきたい防御的な作業なのである。

update: 1997/03/02
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