書評日記 第263冊
万延元年のフットボール 大江健三郎
講談社文庫

 何もミステリアスなというジャンルを設定しなくても、ミステリアスな小説はあるわけで、「万延元年…」の途中で森博嗣著「すべてがFになる」を読み、そのあと再び「万延元年…」に戻った経過を考えれば、俺にとってさほどジャンルというものは意味をなさないものらしい。
 どちらかといえば、作家自身が見える小説、作家の背後にあるものから考察する態度、佐藤信夫がロラン・バルトを称して「読み取る人」と云うように、作家が何かを経験して、それを書きつけた結果が小説であったに過ぎない素直さの部分に俺は魅了される。

 その点で、大江健三郎と彼の息子「光」の存在は、切り離せない要素である。障害児という結果から、単なる悲劇像を産み出して諦めてしまうのではなく、其処からこそ何かを得るのではないか、という妄想の連続が、大江健三郎の小説の根底を成しているのではないか、と俺は思う。

 「万延元年…」は、一揆の指導者という部分に焦点が充てられた小説ではないだろうか。鷹四という名が、柄谷行人が「終焉をめぐって」で言及しているように、固有名詞の欠如という状態が、万延元年に行われた農民の一揆というものと、そこにいた曾祖父の弟という存在、戦争の中での天皇という位置、等の歴史の中での必然なる一致を物語っているのだと思う。
 行動する鷹四に対する形で、密三郎が存在する。いや、この2人は表裏一体の関係であり、指導者として活動的な態度を示し、また、内部的な葛藤を鷹四が外側に表わせば表わすほど、密三郎は、静かに耐えなくてはならない。鷹四の自殺により、密三郎は、鷹四の呪縛から解放される。また、密三郎を解放するがために、鷹四は様々な行動を起こさなければならなかった。その最後の結果が、散弾銃による自殺であったに過ぎない。

 密三郎は、自らの妻を鷹四に強姦されても、それを受け入れなければならなかった。ただ、行動を奪われた静な存在としての蜜三郎は、本当に鷹四の自殺によって、自らの意志を取り戻すことができるのであろうか。

 後書きで、大江健三郎自身が云っている「読者を拒否する文章」が「万延元年…」の冒頭数ページに掲げられている。俺自身にはさほど拒否とも思えないどろどろした内省を吐く文体は、省みれば俺自体の態度が、そうなっているがゆえに起こる共振ではないだろうか。
 ともすれば、自分と他人とは違う大江健三郎の小説への接し方の中で、己の描く文章というものに対して、更なる不安を掻き立てられるわけなのだが、未だ、作家ともいえぬ自分の立場を省みれば、人としての成長だけを望み、その中から生まれるものがたまたま小説であったに過ぎない、という状態を俺は欲し続けざるを得ない。

update: 1997/03/01
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