書評日記 第271冊
三島由紀夫おぼえがき 澁澤龍彦
中公文庫

 澁澤龍彦と三島由紀夫が楽しげに会談をしている姿というのは一種異様な感じがする。三島由紀夫といえば、日の丸鉢巻き、自衛隊入団、切腹自殺、というイメージがあるから、人としてよりも群像としてのイメージが強い。それは、三島由紀夫自身が稲垣足穂を永遠の少年像として空想していたり、サドの人生を怪奇として捉えていたのと同じかもしれない。稲垣足穂にせよサドにせよ、至極全うな人生が彼らにはあったはずだ。それは作品から受けられるイメージと作者本人とは別物とは見ない、素直に騙されたいという読者の希望なのであろう。

 俺は、文学研究者ではないから、作家自身の生い立ちにはあまり興味がない。作品から受けるイメージをして、作家の作家たる姿を得られればそれでいいと思っている。
 しかし、このような人物論(?)がおもしろいのは、その人物を巡る環境を知ることにより、彼の読んだ本により、彼を形作っている本質の部分、つまり、過去から流れてくる影響の正統さを垣間見ることができる。そして、その末端に自分が居ることを知ることが出来る。

 三島由紀夫の作品の中で「音楽」と「豊穣の海」は避けられない作品らしい。これから読もうとしている「禁色」は駄作とあるが……この辺、妙な先入観を得てしまうのも困りものかもしれない。
 
 あと、特筆すべきは、三島由紀夫が常に「自意識」を意識し続けていたこと、蟹を嫌っていたこと、そして、サドを含むフランスという国が精神的に特殊な国であること、ぐらいであろうか。あとは、永井荷風と石川淳の対比。
 未だ全作品を通読していない俺にとっては、三島由紀夫論というよりも、澁澤龍彦の語りをただ聞き入るという感じであった。

 単なる書評で終わらせないために、俺個人の感想を書く。

 三島由紀夫の小説を読むと彼が如何に、実直な天才であったか解かる。彼自身の私生活は解からないのだが、少なくとも様々な小説のスタイルは、小説家としてきちんと模索を続け、そして、為し得るだけの才能があったのだと思う。逆にいえば、厚顔であったのかもしれない。ただ、無知ではないゆえに、自分がなんとかしなければならないという焦燥感、ヒーロー感ゆえに、慌ただしい人生を送ってしまったのではないだろうか。
 自らの死というもの、最期というものを決めたとき、死刑囚と同様に、時間の圧縮現象が起こるのではないだろうか。死なねばすまされない自決という形をとることによって、三島は後世の人々に彼独自のイメージを植え付けた。長々と生きていれば、未だ老人として、余生を送っていたかもしれない彼は、切腹という形でしか、自らの本音を吐き出すことはできなかったのではないだろうか。

 俺の未来にどのような道が待っているのか知ることはできない。しかし、その場に於いて、確実に自分に正しい行動を取ることが、自らを成長させるポイントであろう。例え、それが自殺という形であっても、芸術として昇華するならば、それに殉ずるのも悪くはない。
 未来が上り坂でなければ、終わる人生というものは、頂点というものが、己の甘受できる最高の時を示しているに過ぎない。下る道をわざわざ選ぶことはない。誰でもできることならば、俺はしなくて良い。其処に、自らの終わりがある。

update: 1997/03/05
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