書評日記 第272冊
水いらず サルトル
新潮文庫

 カフカ関係のサルトル。そのうちカミュの「異邦人」でも読むといいかもしれない。「嘔吐」を探しているのだが、文庫にはないのだろうか。肉体を必要としない恋愛の形式を問う書として良いらしい。

 恋愛関係は考えていると頭が痛くなる。決して選択はできない人間としてある自分を不甲斐なく思うのか、男性という性を持て余してしまうのか、どちらにせよ、自己言及が厳しくなればなるほど、独立しなければならない自分だけが残る。逆に云えば、他人の快楽がどうあれ、己の快楽とは別ものなのだから、愚かにも基準を他人に合わせる必要はないのである。
 むろん、恋愛というものが、いや、人間関係というものが、ひとりでは為し得ない複数の人間によって成立しているのだから、先の個人的な価値観を押し通すのは、トータル的にみて達成させるのは難しい。だから、そこそこの妥協(?)を以って、人は本質に気付かないように避けて過ごすのかもしれない。
 他人とは違うという意志そのものが危険思想であり、人間関係を築くことに障害となるのであっても、それが、本当の自己を満足し得る大切な要因に他ならないのであれば、俺は捨てることができない。
 ゆえに、本当の独創性を保つために、再度、他人を切り捨てる作業を遂行せねばならないのだろう。

 「一指導者の幼年時代」以外は、なにかよくわからなかった。いや、解かった部分は多いのだが、「一指導者の…」へに強烈な共感のために消え去ってしまったのかもしれない。

 主人公の少年が、自己を発見し、そして、支配者となるために、自己を捨てる。それだけの話である。
 解説によれば、骨子ともいえる情景の削ぎ落としを指摘しているものの、小説的甘美の味わい(?)を別とすれば、本質を掴ませるという点で十分なような気がする。それは、殻谷行人語るところの骨に纏わりつくぶよぶよとした肉塊なのかもしれない。

 「見る自分」と「見られる自分」のバランスを保つことが、神経症にも分裂症にもならない秘訣である。もちろん、普通の人はこれを意識しない。意識した者のみが苦悩せざるを得ない葛藤なのである。
 病理といってしまっては、あまりにも卑下しすぎる人物というものに対して、自己観察による自己分析、そして、自己実現に繋がる外部の事実の容認、また、傷つき易い心を崩壊させることなく純粋に保っておくための芯、等は必要不可欠な要素である。それらを得てこそ始めて、苦悩より解放され、本当の意味での快いという状態を得られる。そう、少なくとも俺はそれを信じる。信じるしかない状況にいる。
 「一指導者の…」のラストでは、主人公は、見られる自己を優先させる。仲間というものを持つために、自己の意見を捨てる。また、自己を抑えることでとある集団に組み込まれる。徒党というものには個人はいらない。個人として様々な意見を押し隠し、集団としての欲望のままに行動し、それに属することが、多数派という権力を持つに至る秘訣である。それは、権威となり、支配となる。指導者という地位を得るためには、自らを変装させて、それに気付かずにいる自分を形成させて、揺るぎない集団への帰依を敢行する必要がある。

 無意識という罪を背負っていることを、無意識な人達は知らない。気付かないという事実が、気付いてしまう人達の心理を覆い被せてしまう厚い膜になっていること自体に、彼らは気付かない。
 先々、どのように真実を伝えたらよいのか、と俺は苦しんだわけだが、無関心という壁は俺が想像しているよりも厚く頑固であることを知った。それは、関心がなければ知ることはない、また、知ろうという意欲さえ持たない人達が大多数を占めるがゆえに、安定する社会というものにはっきりと気付いたからである。
 探究心旺盛な自分を匿うには、それ自体への心地よさ、また、それにしか価値のない自分の人生を再確認した時、その稀少性ゆえの苦しみを少しでも少なくしようとする防御策を取るのは、決して間違った方法ではないだろう。

 だから、主人公のように「見られる自己」に帰依するのではなく、自分の考えに忠実であるために、自分で気付いたものにしか知り得ない事実というものに、関心があればこそ見える情景を残して、関わろうとせぬという自分の弱さ(?)にこれからは栄誉を与えたい。

update: 1997/03/08
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