書評日記 第279冊
影の現象学 河合隼雄
講談社学術文庫

 心理学者にとって現象とは観察して分析するものであるものの、精神病医にとって患者とは癒すべきものである。河合隼雄が、どちらの立場を大きくとるのかといえば、後者の治療としてのユング心理学を重んじていると俺は思う。主人公ではなくて脇役として生きる人生を認識して、人を支えることの行為に全力を尽すならば、その"全力"の部分ゆえに自己実現を為すともいえる。その点、人として尊敬に値する人物である。

 影とは、本体から映し取られた本質である。前方に位置する本体は、目に見えるからこそ惑わされる部分がある。しかし、其処から投射される影の存在に気が付けば、本体の本質が極めて単純に掴める。ただし、見る位置が変われば本体からの影も変容するように、本体自身は様々な要素から成り立っていることを忘れてはならない。ひとつの影のみから創造される本体を妄想することによって、分裂症的な二分化の考え方(善と悪、美と醜、男と女等)に陥ってしまう。つまりは、分別智の濫用による弊害であろう。
 逆に、相手からの光により、自分の影が後方に映し出される。これは、相手に映る自分の姿を現わしている。どのように見られたいか、ということを模索することで、人は良きプライドを育てることができる。ただし、「見られる自己」を過大評価してしまって、「見る自己」をおざなりにしてしまうと、ただ、外部に翻弄されてしまう自分が残る。学生の時のように未だ社会に足を踏み入れぬ者ならば退路は広くあるのだが、会社員となり構成員としての立場を強要、または、自らを其処に当て嵌めようとするたびに、2人の自分を行き来する自分の姿を見て、吐き気を覚えるかもしれない。しかし、多層化する社会を考えれば、ひとつの社会での卑下は、別の社会の尊敬に値することもある。社会からの様々な価値観と、自分の中の固定化された価値観を取り違えると、一貫しない自分の姿に悩むことになる。知らねば、社会の中にある浮遊した自分をそのままにして、踊りともふざけともつかぬ人生を送れるのかもしれないが、病理ではなく、本質として気付いてしまうのであれば、新たな名づけとその理解を深めるのも、自分を知る活動と、将来的に安定を得る必須の要素だと思う。

 道化は幸せにはなれない。道化であることは、神にもなれる悪魔にもなれる自由奔放さを維持する特殊性である。社会的な立場として、神、悪魔、道化、トリックスター、ストレンジャー、がある。自分とは違う大衆を意識するならば、社会の縁を意識して、自らの姿を様々に変化させる勇気を持つ必要がある。
 病理者と実現者の違いは、表面的には紙一重であるものの、自意識の面では相当の違いがある。それは、入り口が出口であるクラインの壷のような時空が捻じ曲がったところの同一性を持つのである。治療をしたならば、病理者は社会復帰を為す。治療をしたならば、実現者は社会からドロップアウトするのである。それは、精神病医がカウンセラーに過ぎなく、頑固な自殺者は自殺することでしか救いを得られないというさりげない皮肉に落ち窪んでいく。

 ユング心理学の中で共時性というものがある。因果律の崩れたところで起こる不可思議な人間関係を云う。つまりは、トリックスターは事件のあるところに必ず居合わせるのである。その確率は絶大である。ゆえに、トリックスターは共時性に囚われる。
 ただ、この論理をひっくり返してみれば、彼は最初からトリックスターなのではなくて、社会がトリックスターを必要としている現象そのものが、彼をしてトリックスターに為させているのではないか、と思う。
 個人的な立場というものは、立場であるがゆえに決して社会とは離れて存在し得ない。いくら自己実現であり個人的な要素が大部分を占めようとも、彼の周りに環境が存在する限り、人間関係の中で培われる彼の立場というものが、彼を何かに創り上げていくという作用に晒されざるを得ない。
 それは、トリックスターを望んでトリックスターになるのではないように、道化を望んで道化になるのではない。社会がトリックスターを望み、道化を望んでいるに過ぎない。其処にある強迫観念というものを感じた時、踊り出なければならない切迫感の元に、人は演技をし始める。
 ただし、それぞれの素質が其処に必要とされるように、捻じ曲がった未来を妄想するのは、自らの死を意味する。その駆け引きに、利己的遺伝子が一役かっているのだろうし、全体を総括的に扱うのは、個人的な欲望から奏でられる一般社会への投影、そして、全体として多数を占めるがゆえの個人の中にある大衆意識という幻想なのである。

 道化もトリックスターも、結婚をすることはできない。いや、両性具有である者に結婚による子孫を残す意志はない。あるのは、平凡からの脱却と、退屈への嫌悪と、悪から神への転身を望む、彼の自己愛に過ぎない。
 それらを理解しつつ、最高の己を模索するのが実現者であり、溺れるままにもがき苦しみ、虚勢の中に沈む姿こそが、病理者の憐れな姿であろう。

 飛翔する少年は、母なる地に叩き付けられる。危ういながらも、ふらふらと飛んでいられる少年にとって、遠く下に見える母は、安定としての大地であろうとも、脱出しなければならない悪魔の安住地に見える。近親相姦を嫌悪しつつ、戻らねばならぬ母の地というものは、少年にとって、人生最大の壁であることは確かなようである。
 それに対して急激な離脱を試みるのは危険である。翼の力と羽の渇きを十分に認めた上で、一定の間隔を持って飛ぶのが最高であり、その線上を自由に飛び回ることこそ、地へ落ちぬ賢さといえる。ひとつひとつの階段が其処にある。その階段は、少年にとって翼休めの宿り木なのか、新たな母の地なのか、どちらかである。
 ただし、戻らぬ寂しさに耐えられるならば、風の中に永遠に遊ぶこともできる。それは、少年の"死"をもって、母なる大地への組み込みを終えて、すべてが完了する。
 

update: 1997/03/14
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