書評日記 第280冊
十九、二十 原田宗典
新潮文庫

 青春小説という分野がある。妙な分野分けではあるが、それを対象にしている賞もあることだし、別に不思議なことはなく、一般的なことなのかもしれない。ただ、俺にはあまり一般的なことではなかっただけだ。

 成人を迎えるという意味、また、子供から大人になるという意味で、二十歳という年齢を見るのだと思う。主人公山崎は、ぐうたらな父親を持つ。母親は、父親を嫌悪するのだが、離婚しないわけだから、それに属しているに過ぎない。そんな両親の元を離れて、一人暮らしをしている山崎は、とあるポルノ雑誌の問屋にバイトをする。そこで何かを期待したわけではないのだが、どうにも翻弄されてしまう山崎の生活は、環境に踊らされるがままの時間が流れれる。そして、二十歳を迎える……いや、迎える3日前にて小説が終わる。

 山崎は何もしない。子供であるがゆえに、環境に流されているだけに過ぎない。いや、既に大人になってしまった心身を持て余して、まわりの子供じみた大人達の行動に、呆然となっているだけなのかもしれない。
 先には何も繋がらないこの一時期は、彼にとっては19歳から20歳という特別なイベントであるのにも関わらず、周りの者にとっては、単なる彼の一人芝居に過ぎない。何か行動を起こそうとするのか、何かが変化するのか、何か未来が見開けるのかと、環境へと期待する山崎なのだが、あまりにも破廉恥な周りの大人達の行動の中に、彼個人のささやかなイベントは、何事もなかったように過ぎていく。

 青春の謳歌ではなく、人生の継続への寂しさを募らせるのがこの小説の意図なのだろうか。人生のうねりは、自分で捻り出すしかない苦しさを避けた時、流されるままに馬鹿にされにする個人が残るだけである。それが、青春という特別な時期を、陳腐な人生の一時として貶めてしまう。また、老人の冷ややかな想い出の一部としてフイルム化してしまう。
 一体、何処に転機が潜むのかと云えば、何処にもないといえる。転機は環境が作り出すのではなく、自分の中にあるちょっとした気の迷いが織り成す心筋梗塞のようなものである。それに乗るか反るかは個人の好みではあるものの、他人の乗るを見るのは、阿呆の所存と見なければ己の侘しさを確かめるだけに過ぎない。または、更なる機会を転機を持つために、臆病風に吹かれないようにする注意ともいえぬ思慮を備えるに至るだけだ。言わば、そのような心筋梗塞には人は余り耐えることができないだろう。苦しみを知れば知るほど、先行きが見えれば見えるほど、平凡である人生の中に自らを埋没させることを厭わないようになる。くだらなくとも安定を求めるのは、"青春"を青春として貶めてしまう心の衰えに過ぎない。

 カメラマン根子谷の逃亡が、主人公山崎の人生の一時に彩りを添えるとはいえ、山崎自身の想い出にはならず、子供ともいえる活力の中に逃走ともいえる再出発を目指す根子谷自身の想い出でしかないのは確かなことである。
 他人の人生への脇役でしかなかった自分を省みて、嗚呼と嘆くのは、飛ぶことのできなかった山崎の愚かしさ、いや、白痴とはなれない現実の苦悩をしめしているのかもしれない。

 様々な人の人生を垣間見た時に思うのは、何故に幸福にはならぬ自分を、腐ったように決して変化しない己の環境を嘆くわけなのだが、遅々としではあっても止まってはいない自分を励まして、息継ぎを止めぬ自分の愚かしさに感謝する。それが、日常というもので、ハレは長くは続かず、沈静化された暴動の雄叫びが五月蝿く感じられるようになれば、周辺での傍観者として佇む自分に分別者としての称号を与えるに如くはない。むろん、彼らの踊りが、楽しくないからこそ、決して動かない自分を、自らの快楽に寄り添うという点で、自己を認識する目を確かに持ったという納得を得るに至るのだが。
 遠い想い出を語る老人になるには早すぎ、恋に帆走して先行きを眺めぬ若さの脚力を信じるには遅すぎ、そんなぼんやりとした人生の狭間の中で、脱皮ともいえる深い思想への埋没を行う手法を得た己というものを、再認識するような小説であった。
 それは、考え続けた人生というものが、不幸であろうと幸福であろうと、そうするしかなかった環境の中で育てられて、今に至る己への経路を感じ、先行きが不安でありながらも、平凡ではすまされない自分の人生というものを確認し、"青春"を青春とはしない継続の中にある自分を抱きしめ、安堵するのが、俺の人生なのである。

update: 1997/03/15
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