書評日記 第282冊
零度のエクリチュール ロラン・バルト
みすず書房

 浅田彰の「構造と力」よりも遥かに解かり易い。
 物事の意味を突き詰めようとすれば、必ず記号学にぶち当たってしまう。ただし、それは記号学という分野だけに止まらず、すべての根底にある"記号"というタームに還元されてくる。

 エクリチュールは、様々な構造の中に潜む御手本となるべき書、という感じであろうか。小説の中で文体論が持てはやされるように、政治の中で権力の行使に模範があるように、ある形式を形作る時に扱うべき教本が其処にあり、また、形式自体が教本を支えるという相補関係が出てくる。むろん、脱構造として小説の枠を打開するためには、その教本を認識しつつ小説の枠に止まることを知らなければならない。つまりは、自由自在に伸び縮みができるものの、決して外にはみ出すことは出来ない内側を保つものとして、エクリチュールが存在する。

 「記号学の原理」の方は簡単である。
 物を認識するにあたって、物を差し示す言葉=シニフィアン、物そのもの=シニフィエということを押さえておけば良い。実は、ロラン・バルトの云う"表徴"もその分離であるし、ユング心理学の"象徴"の概念も其処に繋がる。仏教思想のマーヒーヤとフウィーヤも其処である。
 言わば、対象と観察者を常に分離して考えればいいわけで、その辺は「見る自己」、「見られる自己」の対立にも云える。

update: 1997/03/19
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