書評日記 第283冊
痴人の愛 谷崎潤一郎
新潮文庫

 文学というものを成功させるのに人格を崩壊させなければいけないとすれば、小説家を目指す者とは一体なんなのであろうか。ベストセラー作家村上春樹を例にとれば、世間をして巨匠と呼ばしめる程度には成長した己を以って、完成を為すとするのであろうか。
 夏目漱石のように日本文学というものを開眼させる真摯な取り組みを続けるのか、大江健三郎のように障害児というきっかけを持って個人的な体験というものを端的に記していくのか、筒井康隆のように自らの快楽のままに進み挑戦という名の元に文学へと挑むのか。様々な作家が、様々な方法で自分の小説を創造している。それは、全く個人的な意志でありつつも総体的には文学という体系の中に組み込まれ、後世の読者にとっては、様々な系譜としての作家の履歴が存在するに過ぎない。
 まったく個人的な読者としての立場から、小説を読む場合、どのような小説に出会うかは偶然でしかありえない。研究的な文献は別として、とある作家を好めば、それに合わせるような思考を持つだけであり、愛読書・愛読作家とはその程度の意味合いしかもたない。
 しかし、膨大な作家達の系譜から選び抜かれた個人的な愛読書・愛読作家達は、個人に対して影響を及ぼす。その影響ゆえに再び、自らの嗜好を確かにして、知的な娯楽へと陶酔するのであろう。

 譲治がナオミに惚れる。一個の我儘な人間であるナオミに対して、譲治は真摯に接する。いや、譲治は彼女を補佐する道具でしかなく、彼の人生はそれによって価値を問われる。娼婦然としたナオミの姿を以ってしても譲治が彼女から離れ得ないのは、彼自身の人生が無いからである。彼の人生は彼女の中にしかなく、たまたま、惚れたナオミが高慢な娼婦の素質を有していたに過ぎない。不幸なのか幸福なのかわからない。ただ、離れるよりは幸福な、という相対的な幸福しか譲治は得られない。
 自由奔放なナオミの姿を自由奔放のまま終わらせてしまう「痴人の愛」であるが、それが小説の中でのみの事実なのか、現実に起こり得る事実なのか、俺には判断しかねる。ただ、おしきせの恋愛ごっこに従事する者たちを見るたびに俺個人の経験も合わせて、何かが変だ、と思わせる部分が大きい。
 ある意味では、堕落ゆえの美かもしれない。一瞬でも楽しければそれでよい、現実が一番厳しいものだという誤解を誤解と解からない想像力の無さに起因するのかもしれない。言わば、狂乱の踊りの中にこそ、いや、しか見出せない幼さ、または、卓越したと思われる感情を持ち、それが世間体が良かろうと悪かろうと個人は個人でしかないという他人行儀な態度から生まれる相互関係の乏しさから出てくる間違いなのである。むろん、脱せねば気が付かぬであろうし、一生脱せぬ人もいるのだから、それはそれで幸せであるのかもしれない。それが、俺には"幸せ"でないだけだ。

 小説の中の現実性(リアリティ)の無さという科白を何処かで聞き、それについて考えるのであるが、「痴人の愛」には現実性のかけらもない。それは、奇異なのは現実であって、小説はそれを切り取ったサンプルでしかないような気分に襲われる。
 現実の世界の奇妙なずれを感じつつ、想像力を補わせた時、あまりにも思考形態の違う人達を見る度に妙な感覚に襲われる。それは、考えることこそ自らを形作る人生乃至自己実現を為す唯一の方法だと思っている俺が、一番奇妙な態度をとっている感触を受けるのである。俺が露呈しているのは、"愚かさ"であるのか"素朴さ"であるのか。少なくとも愚鈍とも思える己の行動の嫌らしさを感じつつも、それに自分の感情を潜ませるしかない自分を持て余す。
 ただ、最近になって思うのは、そうした愚鈍の中にしか自らを置かなかった(置けなかった)過去の時期を振り返れば、その継続の中に身を委ねるとしても、さほど悪くはないと思いつつある。いわば、要領が悪いわけだ。

 少なくとも、自分の将来を自分で保証しよう。それぐらいの心のゆとりはあったほうがいい。

update: 1997/03/21
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