書評日記 第285冊
聖書のなかの女性たち 遠藤周作
講談社文庫

 あいにく聖書を読んだことがない。持っているわけでもない。所謂、教典の類いを避けている。キリスト教であれ、仏教であれ、ひとつの宗教を信じてしまうのを俺は躊躇う。それは、俺にとって"神"という存在は、人を罰するためにあるのではなく、世の中の秩序を保つ物理法則のようなものだと思っているからである。だから、すがるのでもなく、呪うのでもなく、ただ、流れる時間の中、人間の歴史の中にある"正しさ"の部分を培っているような存在である。

 迂闊にも旧約聖書の女性の記述がイヴとリリスだけで、新約聖書には14人もの女性が含まれていることを知らなかった。ひょっとすると、俺はキリスト教の中の2つの派を取り違えて考えているのかもしれない。
 遠藤周作は、新約聖書の記述に従って物語の中に出てくる女性達を解説していく。言葉というものが権威であらばこそ、その極みである聖書の中で出てくる登場人物というものは、ある典型を表わし権力による断罪を下す手段に陥りかねない。しかし、物語として読み進めれば、数々の女性達が様々な環境における一定のパターンを示し、集団の中での強弱ゆえの不幸な地位に陥るという個人ではどうしようもない導きの結果に対する理解を深めさせてくれる。言わば、弱者という立場にある時に、立場ゆえに心が荒むのではなく、どの立場であれ個人としての達成の域というものは個人の気持ちによって為し得られるからこそ、道程は違っていても距離は同じなのではないかという平等感にひとつの安心と癒しを得る。
 キリストに関わることが重要なのではなく、関わるというところから学び得る感受性の強さが重要なのである。人と人との関係が重要なのは、偉大な人に関わるのが大切なのではなく、人から掴みとることのできる自分の許容量の大きさが人との関係の中で掴み得る大切さを含んでいるからである。それはキリストの裾に触れようとする本当にささやかな、しかし、切望する関係の中からでも人の一生を変え得る重大さを持っている。

 男性という性を受けて生まれた俺は、"男らしさ"というもので育てられたものの、前提である"人間らしさ"は失わなかったような気がする。それだけも、十分に"らしい"自分というものを誇ることができる。色々な形容詞を付けることができるけれども、それらを排してなお残る"自分らしさ"を好む自分がいれば、それでいいような気がする。
 ある意味で"やさしさ"というものが虐げられてしまうのは、"やさしさ"を貫き通す心の弱さに過ぎない。自分が強者である立場から弱者への態度がやさしくあるのは当然なことで、弱者であっても強者にやさしくできるのが真の"強者"なのだろう。
 
 キリストであれ仏陀であれ親鸞であれ、偉大だと思うのは、人だからだ。同じ現実という世界の中で生きているのに、俯瞰による達観ではなくて、生きるということに対して非常に真摯であった人の生き方を学ぶことは、人に対しての強烈な共感として帰依でしかない。
 確かに刹那刹那を過ごさねばならない現実の世界の中で、自分の中の信念を信念として一貫に保っておくことは難しいかもしれない。しかし、信念だからこそ一貫して置きたいし、人を慕うのは一貫した信念だからこそ、揺るぎのない人として形態を好むことができるのではないだろうか。それが、人としての"信じる"行為であると思うのだが……。

 現実は泥臭い。聖人君子なんてイチコロかもしれない。裏切りがあるかもしれない。結託と反逆との繰り返しかもしれない。
 でも、なお、人が信じられるのは、人としての尊厳を誰もが持っているからだと思う。それは、まさしく、人を"信じる"ことでしか成し得ない事実なのであるが、考える理解力とささやかな寛容性を兼ね備えれば、一時は苦しくとも其処に至らなければならない理というものがある。むろん、この文章自体も、それらに縛られているに過ぎない。

 自分が見えなければ他人が見えてこない。他人が見えなければ、自分を労ることはできない。どのように他人を見ているのか、どのように自分を眺めているのか、様々な状況の中でのひとつの指針として聖書があるのかもしれない。

update: 1997/03/24
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