書評日記 第286冊
アルジャーノンに花束を ダニエル・キース
早川書房

 有名な作品ほど手が出し難い。ベストセラーになるにはそれなりの理由があるのだろうが、大衆的な嗜好の中に求められるおざなりな理由に自分が含まれていると思うのはちょっと悔しい。
 ただ、様々な作家と様々な小説を読んで最近気が付き始めたのは、それぞれの小説が語り掛けてくるものが決して重ならないこと。それは、人間というものが分類されるものではなくて、個々としてあるに過ぎない存在であって、学問的分類方法を個人から見た個人に対して当て嵌めてしまうのは愚かであるということだろう。分類するには人は複雑過ぎる。小説も複雑過ぎる。すべてが盛り込まれた総体として個人がある。

 精神薄弱者チャーリー・ゴードンが手術を受けて、知能を回復する。いや、飛び抜けた知能の回転を得、天才になる。そして、急激に衰えて、再び精薄になる。
 小説は彼の経過報告という形を取られる。日記とも告白ともつかねる文章から得られるのは、自己探求そのものである。

 映画「レナードの朝」のレナードに似ている。薬により眠りから目覚め、一瞬の幸せを掴んだ後、再び眠りに付く。再び、手を震わせ、身体を揺するレナードの姿を医師が8ミリ映写機で記録する。

 彼等は患者であり社会的弱者であり、科学者でも医師でもない。でも、科学や医学に身を委ねられ、翻弄されつつも、それへの信奉、いや、自分への信奉から奉仕から後世への委ねから、自分をさらけ出す。既に彼は彼個人ではなくて、すべての患者の代表であり、一例であり、モルモットであり、殉教者である。
 人並みな幸せさえ満足させてくれはしない立場。人は人として生まれた瞬間から差別が始まる。奇異な目も尊敬の目も総ては環境から判断される戯事に過ぎない。しかし、それらの下らない戯れであっても、人は人に接する時はそれしか見えない。本質を捉えることができないのは、本質を知らないからであって、本質を知らなければ、環境に惑わされ続ける自分が残るだけである。むろん、惑わされていること自体に気付かずに、人を虐げてしまう。
 人並みなんぞ有り得ない。比べることなぞできない複雑さを人は有する。それは、知能でも財産でも地位でも比べることはできない。結局のところは、如何に自由に自分を操るかに過ぎない。人を虐げるところに幸福はない。なぜならば、"虐げられる人"の存在に気が付いた時、虐げる愚かな強者である自分に気付きそれを怨む。怨まれる自分をほうっておくことはできない。だから、人を虐げることはできない。
 自分の財産は有益に使おう。自分の立場を有益に使えることが求められる。それは、"虐げる"こと無しに為される行動の中にこそ、"有益さ"が含まれる。それこそが、真に求めるものを得る行為になる。

 白痴(idiot)の単語から得られるのは、個人的な理由からなのだが、許しという結論なのか。
 俺の人生のすべてが今の俺自身を構築していて、すべてが無駄のない事象によって組み合わされている完璧さを求めるのならば、無知ゆえの愚かさと迷惑さを自認するべきなのだろう。それが、「白痴」という単語を周りを判別しえぬ気遣いの無さの者として憎しみの対象とするのか、世の中の穢れを知らぬゆえの純白の中から導き出される素朴さに心寄せる対象とするのか。
 ただ、"智"という名を得た己を鑑みれば、総ては知ることにより解明され、知らぬでは済まされぬ世の中の理を、"白痴"という隠れ蓑の中で安住することを俺は清しとはしない。それは、泥の中に埋まってこそ、泥の臭いを嗅ぎ得るのであり、泥の感触を知り得るのであり、蒼白な知の中にあるのは、俺にとっては物事を省みることのできない弱さをそのままにしてしまう"弱さ"に過ぎないような気がする。

 強くあらんとするものが"強く"なれる。具体的なものを欲するわけではない。自己を取り戻し、自己に自分を委ねるだけの勇気の中にこそ本物の"強さ"がある。
 だから、俺にとっては、すべては"智"から発せられる土台の上に構築される。現実に目をそらさない"智"への飽くなき探究から得られるのは、"白痴"とは異なる豊かな世界であろう。秩序を求めて学問に頼る。一貫した科学の中の先端部分にこそ、求めるべき俺の幸せがある。

update: 1997/03/26
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