書評日記 第288冊
冬の鷹 吉村昭
新潮文庫

 前野良沢と杉田玄白の訳した「解体新書」にまつわる2人の話。
 著者吉村昭は、学者肌であるがゆえに、頑なな態度から貧しい人生を送らねばならなかった前野良沢に焦点を当てている。

 ある意味で、前野良沢は敗者である。妻を亡くし、息子を失い、晩年は惨めで貧しい暮らしを過ごした。それは、彼の望んだ潔癖ゆえの過ちであったのかもしれない。オランダ語学の学者として数々の訳本を作るものの、解体新書には訳者としての名を連ねず、自分で訳した本も出版しない。
 果たして、彼は何を求めていたのだろうか。

 翻って玄白の名声は目覚しい。オランダ語に接するのは解体新書だけで、その後は医師としての名声を馳せる。多くの弟子と名を残す。日に当たる場所に居て、世間の名声を名声のままに受け取る。

 表裏一体とも思える彼等2人の人生は、自分をどちらに置くかと悩ませてしまうところがある。
 普通はどうなのだろうか。よく知らない。

 自分のことを考えれば、さして一般的な意味での幸福はいらないような気がする。傲慢さを承知で云えば、その程度の幸福さでは俺は幸福にならないのではないか、と思う。
 少なくとも、自分の地位に満足はしていないのだから、どこかに転ばなくてはならない。それが、他人から見ればあまり意味のないことであっても、俺にとっては重要な意味を持つ。重要だからこそ、それについて考え続けることができるし、今まで考え続けていたに過ぎない。
 それが、本当に"幻想"であるか否かは、今の俺は知ることができない。周りの人も知らない。ただ、行動をしなければならないという衝動が常にある。単なる生きるための原動力なのかもしれない。ただ、巷に溢れる快楽の泉では楽しめない自分が残る。彼を満足させるために俺は何らかをする。
 それが、"個性"というものなのかもしれない。
 ただ、一般的な世間から離れたところの"個性"を固持することは、貧しい地位を生み出すことに過ぎない。その貧しい地位は、自分の中でも貧しく、決して満足できぬ地位である。尺度が外にあれ内にあれ、自らを満足させぬ地位に固執することほど愚かなことはない。また、それを愚かと感じる自分を、愚かなままにしておくことはできない。
 すなわち、漠然と幸福を求めるものの、それは、簡単に手に入れられるものではない。しかし、手に入れなければならない、手に入っていないからこそ、求めるという心の動きを生み出す。その連続性の中にある自分の姿を認めることこそが、俺の幸福なのかもしれない。
 言わば、何かに固執をして、何かを固持して、何か必死にしがみ付くのは、あまり幸福とはいえない。一撃二撃から、学べるものを学び、あとは、考察に頼るのが良い。

 前野良沢は、幸せだったのだろうか。吉村昭は、彼の晩年を貧しく侘びしい姿として締めくくる。
 俺も侘びしいと思う。それが、人としての希望を意味する。

update: 1997/03/31
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