書評日記 第289冊
雪片曲線論 中沢新一
中公文庫

 フラクタル・カオス理論が、現在「複雑系」として一般に理解されているらしい。その先駈けとして、哲学形式でのフラクタル・カオス理論の理解の体系が描かれている。
 繰り返しの中に繰り返しを含む「くりこみ構造」の中に曼荼羅を発見させる。どこの曲線においても微分不可能であるフラクタル曲線の上では、非線型として扱われる。ジル=ドゥルーズ著「差異と反復」の中に「ニュートンが物理法則を決定するのに誤った部分は、すべてが微分可能であるということである」という一説を思い出す。
 ひょっとすると、社会的な思想家はすべて、カオス・フラクタル理論に影響されているのではないか、と思う。無論、意識するしないに関わらず、脱構築と再構築の繰り返しの中から、人は見知らぬうちに構築の中に組み込まれる。それに気付くか気付かないかは、カオスの淵を知るか知らぬかにかかってくる。
 フロイト心理学が文学全体に影響を及ぼすように、利己的遺伝子とユング心理学も多大な影響を及ぼすのではないだろうか。
 「考える」ということに対して、卓越する者ならば、考えずにはいらないという状況を脱するが故に、考え続けるということを為す。その連続性こそが、不確定性原理を推奨し、その空間の脱却を為す唯一の方法だと思う。

 言わば、南方熊楠のように、研究対象に打ち込むことで、分裂症を避けるという、手法に生きるしかない。

 ゼビウスが神話になるのは、コンピュータの閉鎖空間の中から飛び出る不思議とも云えるが、現実の現象として捉えられる開空間への侵略である。
 ゲームという閉鎖空間の中で起こり得る現象を飛び越えて、プログラムの中に飛び出し、それを現実の世界へと押し進める力は、現世と神の関係に等しいのかもしれない。
 ある意味で、善悪という二元的な西洋思想の中からは為し得ぬ、尽きることのない時間の連続、生命の継続性の中から、東洋思想とカオス思想を導き出すとしても間違いではないだろう。

 高原のスピノチストにて、僧侶が頭に草を挿す。実際、脳には痛感がないわけだし、脳自身への損傷を危惧したり、生理的な嫌悪を覚えなければ、さほど問題にはならない。例え、かき回されたとしても何も問題はない。あたかも、ダウン症を天使と置き換えるシュタイナーの如き、正常への否定(または、現実からの飛躍)を肯定することにより、とある地点に達することこそを望む崇高な行動と捉えることが出来る。

 非現実とは何であろうか。
 常識の脱却からでしか、常識を超えた思想を得られないとしたら、人々は常人には狂気とも思える行動に走らねばならないのだろうか。
 すべては、ハレとケの構造になるのか。

 現実が恨めしくなる。

update: 1997/05/04
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